異次元シンドローム

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2004年7月18日付「異次元シンドローム」より)。

 〈自分は何を見てきたのか。何を感じてきたのか〉という問い――。

 自分が撮影した写真以外でも、身近に散らばった、あるいは整理整頓された記念アルバムの中に、その答えを紐解く鍵が、隠されているのではないか。

〈私は何故あの時、かの人にこう告げたのか。どうしてあんな行動を取ったのか〉

 生まれてから、幾万もの“行動”を引き起こし、その“行動”の集結したピラミッドの頂点で、今、生きている。これが現在の「私」という存在だ。これらの“行動”が一つでも違えば、現在の《私》にはなり得ない。そう考えると、《私》というのは、実に滑稽な生き物である。
 例えば、こんなことを考えてみる。とある古い写真の中に写った、何でもない後景としての「原っぱ」。だがその「原っぱ」は、既に現実の原っぱではなく、あくまで写真として切り取られた、物理的な色素の集合物である。その色素も実にノスタルジックで、色褪せてしまって見えるその「原っぱ」は、実際の原っぱとはまったく別の、何か特殊な空間の中に存在する、そう、異次元の「原っぱ」である。
 そんな「原っぱ」を見るとき、一瞬もしくは数十秒の間、私は現実(日常)を忘れ、その後景の妖しい異次元空間の中に吸い込まれていく感じがして、この感覚を誰かに伝えたいとも思うのだが、決してそれは伝えられるべきものではなく、ただただ、自己の身体の中を走る電流の作用として消化される。

 思い出せ、思い出せ。

 腹の奥底から、忘れていた何かを思い出せ。私は確かに、何かを見たに違いない。何かを、感じたに違いない。だが今、それがピラミッドの頂点にいる《私》としての、小さなよろめきであることさえ、忘れてしまっている。
 写真は何かを知っているということなのか。まったく思いがけない「忘れていた」記憶の在処を、導いてくれるというのか。そんな写真を手にするとき、私はもう、別の自分に生まれ変わっているに違いないのだが…。

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