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大阪万博と万国博覧会

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2004年7月18日付「大阪万博と万国博覧会」より)。

大阪万博再考

 谷口千吉監督の『日本万国博』は私のお気に入りの映画である。さらに最近、大阪万博の大判の写真集を入手したので、その強烈な色彩美とデザインアートを堪能することができた。もう時間を忘れて、食い入るように見てしまう。万国博に寄り集まったスポンサーの広告などは、とくにデザインが洗練されているものが多く、今日的に凝り固まった視覚性を、根底からひっくり返してくれる。色彩による予定調和や安定志向は、時代によって変化するが、過去にさかのぼって色彩を確認していく作業は、写真を撮る者にとって、非常に大事なプロセスだと思う。大阪万博に集結した、ありとあらゆる色彩及びデザインは、まさにその時代背景を象徴し、その時代の予定調和と安定志向を無自覚に表現しているのだ。

19世紀の万国博覧会

 さらに「万国博」にはまっている。東京・上野の東京国立博物館・平成館にて、『世紀の祭典 万国博覧会の美術~パリ・ウィーン・シカゴ万博に見る東西の名品~』という特別展が催された。

○1867年 幕府・薩摩藩・佐賀藩が「パリ万博」に参加。
○1873年 「ウィーン万博」に日本国として参加。
○1893年 「シカゴ万博」に参加 日本の工芸が美術品として評価される。

 会場には西洋・東洋の美術品が展示され、当時の万博会場の一部のような雰囲気で、大変見応えがあった。例えば、パンフレットなどにも紹介されているのだが、シカゴ万博に出品された林喜兵衛・他作の「七宝桜花群鶏旭日図大香炉 (しっぽうおうかぐんけいきょくじつずだいこうろ)」は、絢爛豪華な造形と大胆なデザインを施した名品であるし、岡崎雪声作の「執金剛神立像 (しつこんごうしんりゅうぞう)」などは、実際に間近で見ると、大振りな中に繊細さが秘められていて、強い威圧感のある作品である。私が興味を持ったのは、日本の香箪笥で、その小さな箱に、線と面の文様のアートが凝縮されており、見ていて飽きなかった。また、実用としての役割がアートの領域と絶妙なバランスを取り、その役割が必ずしも希薄ではないのが特徴だ。私の「カメラが好き」というのも、多分似たような理由だからだろう。

万国博とは何か

 万国博とは、科学と結びついた人類省察の空間であり、人と文化の出会いの空間でもある。そしてまた、祭りであり、イベントであり、教育学習に奨励される大きな枠組みである。日本国に特定して言えば、19世紀の万博を生で経験して、良くも悪くも――といった表現は不適切かもしれないが――20世紀1970年の大阪万博に行き着いた。その巨像を〈見る・訪れる〉ために、国家総動員的に体制が張られ、日本人の多くは、日常の何かをねじ曲げ、ねじ曲がったものを黙殺してきた。

 人類とは何か?
 「人類の進化と調和」という箴言的強烈なキャッチコピーを刻み込み、それを踏み絵にしながら、身体の全感覚的な記憶として、《人類》という壮大なテーマをありとあらゆる装置で抽象・具象化していった。言うまでもなく、そこからは諸々のアンチテーゼが派生していく。

  私は世代的に、1985年茨城県つくば市で開催された「科学万博」を体験した。中学校の教育学習の一環であった。中学生であった私は、やはりそこでの、マルチプル・スクリーンのたぐいや立体映像、全天スクリーンに目を奪われ、それ自体が科学の進歩なのだと思い込んだ。21世紀に突入し、そこで紹介された夢の科学は、ほぼすべてが実現化、実用化されているのではないだろうか。

 だがしかし、私が最も好きだったパビリオンは、夢の科学をうたったパビリオンなどではなく、「ダイエー館〈詩人の家〉」であった。今で言う“癒し”のパビリオンである。科学万博としてはかなり異端な存在感を示していた。19世紀の万国博は、物産陳列の現物主義であったが、20世紀の万国博で映像・写真がもてはやされ、現物主義の傾向が薄れた。本物を見る、本質を見るという最も重要な思索探求の手段が、21世紀の博覧会に問われているように思われる。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…