刃(やいば)の舞台

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年7月15日付「刃(やいば)の舞台」より)。

 ――夢を見た。

 私はその暗がりな空間の中、鋭くせり出した観客席の一部を陣取っていた。観客は満員であった。何故私が此処にいるのかという不安と動揺は、やがて登場する〈彼〉の存在によって打ちのめされ、その流暢な台詞回しの音律と熱気とが観客の五感を緻密に刺激するであろうことが予想され、私はそれによって昂揚した。そこから見下ろす遙か下方に、〈彼〉が登場する舞台があって、舞台の背景とオブジェは密林の樹木を模した深緑なる抽象造形物であることが、遮られたわずかな斜光によって目視できた。

 拍手喝采を浴び、〈彼〉が舞台の中央に登場した。静まりかえった空間に、満腔から発した野太い〈彼〉の濁った声が谺し、反射音がさらにその声を動物的野獣の勇ましさを加味させ、両耳の内部へ到達した。演劇人たる言語表現においては、甚だ無骨で洗練されていないにもかかわらず、野獣の声の主の不可思議な魅力に惑わされ、観客はその巨人に洗脳された。

 〈彼〉の独白はついに地を這うように終結した。もはや劇が劇として成立しうる先導者のオーラは消えかけていた。観客の中の一人の男が舞台上の〈彼〉に向かって何か言葉を発した。場の空気がさらに凍り付くように静まりかえった。
「俺はあの頃、まともに暮らせなかったんだよ! 生きるのが苦しかったんだよ!」
 切なくその男の声が響いた。〈彼〉はたじろぐことなく彼に返した。
「その通りだ! まさにその通りだ。そうさ、あの頃の生きる痛みは、誰しもが共有すべきなのだ。ボクはその言葉を此処で独白する! 君はさしずめ天使なのさ」
「綺麗事を言うんじゃない! 俺は言葉によって生み出される貴様の貪欲な幸福論に付き合うつもりはない! ただ貴様の破廉恥な態度に腹が立つだけなのだ」
「ボクが破廉恥? するとボクは今まさに民衆の欲するパンと酒を収奪し、万古の繁栄から消えつつある貴族の末裔ということだな」
「ペテン師!」
「ボクは君に共感した。そうさ、ボクはペテン師さ。舞台から用済みとなった哀れな貴族役者なのだ。もう一度叫んでくれ給え。俺はあの頃、まともに暮らせなかったんだよ! 生きるのが苦しかったんだよ!」
「貴様! 此処がおまえの断罪の舞台だ!」

 一瞬にして闇に包まれた。斜光は閉じられ、声すらも無となった。私の脳裏に、〈彼〉の演技が反復された。闇の光というものが〈彼〉を照らし出すとき、処刑の刃が頭上にあって、無情にもそれが二度と離別できぬ枷となって呪縛と怨念を背負ったことを、私は認知した。毒を盛られて息絶えたあの男の死骸が横たわっていた。

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