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「月刊少年チャンピオン」のホビー通販

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年11月25日付「『月刊少年チャンピオン』のホビー通販」より)。

 小学生の頃、愛読していた少年コミック雑誌というと「月刊少年チャンピオン」「週刊少年サンデー」「週刊少年ジャンプ」であった。(「少年マガジン」は自分の中で何故か除外していたことになる。読みたかったコミックが前者の3つにあって、たまたま後者にはなかったせいであろうが、それ以上の理由は特にない。)ちなみに、私が小学生の頃――は小学1年時が1979年(昭和54年)、小学6年時が1984年(昭和59年)の頃で、巷に電子玩具、電子ゲーム、パーソナル・コンピュータが溢れ出した時代である。

 少年コミック雑誌について言えば、それに対する個人的な好き嫌いの推移があった。低学年の頃は“どおくまん”や山上たつひこ氏のコミックが好きで「月刊少年チャンピオン」をよく買って読み、高学年になるとほぼ「週刊少年ジャンプ」一辺倒になり、『キャプテン翼』『キン肉マン』などを愛読した。ただし、中学生になるとぴたりとコミック雑誌を買わなくなった。私自身の一般的なコミックに対する愛情の温度は、中学生の頃に急激に低下したことになる。

 私の少年時代の初期に愛読していた「月刊少年チャンピオン」。その裏表紙に、ユニークなホビー通販広告が毎号掲載されていたのを今でも憶えている。これについては、エッセイ「『モリ』ちくのう錠の謎の女性」でも触れているが、ここにその一文を書き出しておく。

《小学生の時分、少年雑誌の裏表紙に掲載されていた、玩具通販の広告は好きだった。だから毎号よく目を通していた。覚えている商品を少し列記してみる。

●紫色をしたボール状のマグネットを掌で転がし、血行を良くする類の健康器具。
●歯を白くする歯磨き粉「セッチマ」。
●缶詰に入った「金のなる木」。
●好きなイラストを拡大縮小自由に贋作できるアーム状の筆記用具。
●小型スパイカメラ+現像器具一式。

等々…》

 厳密には、そのユニークなホビー通販の広告のみを鮮明に憶えていて、それがどのコミック雑誌であったかについては逆に無頓着であった。近年になってもう一度この広告を見てみたいと熱望するようになり、実際に入手すべき少年コミック雑誌はどれかを検討したところ、先述した少年コミック雑誌の愛読遍歴から推理して「月刊少年チャンピオン」であることがわかった。そしてそれを本当に入手することに成功して、事実、その裏表紙には記憶に残っていたあの通販広告がほぼ記憶通りにあったのである。

 手元にあるのは、1981年10月号の「月刊少年チャンピオン」である。当時定価は280円で他の週刊コミック雑誌よりも数十円高かったのではないか。子供ながらその価格の違いに高貴な価値を見いだしたのだが、小学3年生の頃、少なくとも周囲の友人で「月刊少年チャンピオン」を毎号買っている者はいなかった。この点において私は“月刊ファン”の少数派であった。

 さて、その広告を見てみる。

〈世界中の特選アイデア商品が勢揃い!!〉
〈◎カンタンに入手出来ない新製品がズラリどれでも郵便切手で買えます〉
〈◎3千円以上のご注文の方に体温計型ボールペンと写真入りカタログを差し上げます〉

 という仰々しい見出し。確かに、一般的な玩具とは趣向が違い、眼を点にしてこれらに見入ってしまう。いったいどんな物なのだろうと。実際、小学生であった私は、とにかくどれもこれも欲しいと思った。この中でいちばん欲しいと憧れたのが、「腕時計型トランシーバー」。2ケ1組で4,450円となっているが高価で手が出せなかった。まるでウルトラ警備隊のレシーバーのようで、これを腕に付けて町を走り回ったらどんなに愉快でかっこいいだろうと夢想したものだ。
 そうして本当にお小遣いを貯めて注文した商品がこの中にある。

「デジコンポスト(自動貯金箱)」

 文字通りポスト型の貯金箱で、あらかじめ貯金したい金額をダイヤル設定しておき、あとは貯まるまで100円硬貨を投入するだけ。目標金額に到達したら側面のフタが開いて硬貨を取り出せる、という仕組みである。
 だが、低学年の私には100円玉硬貨単位は高価すぎ、貯める前に使ってしまうという浪費癖もあってあまり実用的ではなかった。むしろ商品自体よりも、それに憧れて小遣いを貯め、郵便局で小為替を買い、封書に注文書を添えて投函するまでの秘匿性を帯びた行程の方が、私にとってはワクワクドキドキとした気分を味わえた。

 考えてみれば、この広告を眺めている時間がどれだけ魅惑に充ちていたことか。それはひょっとするとコミックを読む時間よりも長かったかもしれない。欲しい欲しいという思いを膨らませて、言わばその幻想を楽しんだのである。そして今もその幻想が続いているように思う。一つ一つの商品に、不思議と深い思い入れがあるのは一体どうしたことか。いまだ少年時代の若々しい好奇心が身体に宿っている証であろうか。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

石内都―Infinity∞

私がトノ・スタノの作品が観たく、『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』が催された東京・銀座の資生堂ギャラリーへ訪れたのは、もう6年も前のこと。それは2010年8月であった(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)。それから今年の夏、『Frida is 石内都展』 を観ようと、同じく資生堂ギャラリーを訪れたのだけれど、ギャラリーの手前まで来て急に、“突発”の用事に襲われ、泣く泣く引き返して地下鉄の銀座駅へ落ちていったのである。つまり、私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかった――。
 石内都という写真家の特徴的な作品を、過去、しばし眺める度に、ある2つの作品を必ず思い出す。  一つは映画である。1966年に公開された勅使河原宏監督の『他人の顔』(原作・脚本は安部公房)。そしてもう一つは、文芸雑誌『群像』の2008年3月号に初めて掲載された、大庭みな子著の短篇小説『痣』。これらには共通項があって、それは《喪失》であったり、《傷》といったモチーフで括ることができるだろう。  『他人の顔』は、顔に大きな《傷》を負った男が、別の男の顔の仮面を秘密裡に拵えさせ、他人になりすまし、自分の妻を誘惑するというストーリー。自分が自分という存在を《喪失》し、仮面をかぶってまったく別の人となった時、《喪失》した自分は、その劣等感の反動であらゆる欲望を満たそうと際限なく暴走してしまう悲劇。  『痣』は、原爆が投下された直後の広島の町にて、無残な顔になった友人の恋人に声をかけられず、戦後、友人に再会しても恋人を見かけたことをとうとう告げることができなかった主人公の懺悔。痣とは、ここでは主人公が精神的に負った《傷》と受け取ることができる。
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 私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかったので、彼女の写真集『石内都 Infinity∞ 身体のゆくえ』(求龍堂)を眺めることにした。この写真集は2009年、群馬県立近代美術館にて催された同題の個展をカタログ化したもので、彼女の80年代後半からの作品が数多く収録されている。
 彼女の作品を眺める時、私はどうしてもそこから、《花の匂い》を感じてしまう。それはまったくの気のせいであろうか。  写真集の中で、「1906 to the skin」(1994年)と「A to A」(2006年)の作品について考えてみ…

大阪万博と音響彫刻のこと

久方ぶりに個人的な“大阪万博”熱が再燃するような、そんな興味深い新聞記事に出合い、そのクラウドファンディングの主旨に賛同し、些かの支援の企てをウェブ上で取り計らった。このネット出資が功を奏するかどうかは現時点では分からない――。しかし、“大阪万博”に対する憧憬と抽象音楽への深い関心の交差は、紛れもなく私自身を一瞬にして突き動かした。このプロジェクトが無事に成功してくれることを祈る以外にない。
 私が突き動かされたのは、朝日新聞朝刊5月27日付茨城版の「再び響け 大阪万博の『音』」という記事である。「音響彫刻修復へ ネットで出資者募る」という副題に刮目し、興味を持った。掻い摘まんで記事の内容を説明すると、1970年の大阪万博で出展されていたフランソワ・バシェ(François Baschet)製作の「音響彫刻」を、茨城県取手市の東京藝術大学ファクトリーセンターが修復・公開することを目的とし、その資金200万円をクラウドファンディングで(6月末まで)募っている――というもの。バシェの「音響彫刻」は17作品あって、過去に修復された5台以外の12台がこれに含まれる(一部寄贈された作品があるらしい)。
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 この「音響彫刻」の修復プロジェクトに関しては、バシェ協会のホームページが詳しい。それとは別に、私自身も独自にこの「音響彫刻」について調べてみた。そもそも“大阪万博”でこのようなオブジェがあったのかということに対し、私はこれまで聞いていたような聞いていなかったような、俄に判然としなかったのだけれども、最近、坂本龍一氏のアルバム『async』の中で過去に修復されたバシェの「音響彫刻」が使用されたことを知り、なんとなく朧気な輪郭が見え始めたのだ。そこではっきりと理解するために、当時の“大阪万博”の公式ガイド本(『日本万国博覧会 公式ガイド』)を開いてみた。
 現代音楽の音楽家・武満徹氏がバシェに依頼して作られた「音響彫刻」は、鉄鋼館で出展された。武満氏は鉄鋼館の芸術監督を担っていた。鉄鋼館は、日本鉄鋼連盟主管のパビリオンで、主立った企業を抜粋すると、八幡製鉄、富士製鉄、日本導管、川崎製鉄、神戸製鋼や大阪製鋼、三菱製鋼、日本ステンレス等々で、その他の組合や協会も連なっている。この公式ガイド本によれば、鉄鋼館は、“世界に誇る音響装置”、“古代ローマのコロシアムを思わせる大ホー…

眠る人―ニュートンの『Pola Woman』

ニュートンと言っても、アイザック・ニュートンのことではない。ベルリン出身の写真家ヘルムート・ニュートン(Helmut Newton)のことである。彼は1950年代後半以降、ファッション雑誌『ヴォーグ』(Vogue)などでセンセーショナルなフォトグラフを発表し続け活躍した。世界の著名なフォトグラファーの一人でもあり、私は彼の作品が好きである。当ブログ「フェティシズムの流儀―『奇妙な本棚』」で伴田良輔氏のエッセイ「残酷な媚薬」の中で論述されていた、彼のポラロイド写真集『Pola Woman』について、ここで紹介することにしたい。
「フェティシズムの流儀―『奇妙な本棚』」の稿で私は、《ニュートンは2004年に不慮の交通事故で亡くなってしまった》と書いた。Wikipediaによれば、場所はハリウッドのシャトー・マーモント。遺灰はベルリンに埋葬とある。シャトー・マーモントと言えば、昨年大ヒットしたアメリカ映画『ラ・ラ・ランド』(デミアン・チャゼル監督)でもロケ地となり、セレブ御用達の華やかなホテルという印象が強い。そこはいかにも、ニュートンの趣味にしっくりくる居心地の良さそうな場所であり、彼にとっては最も生活臭の濃厚な居場所であったけれども、遺灰はベルリンに、という部分に、思わず一瞬、そうなのかとも思ってしまう。ニュートンが最も華やかに活動したパリやモンテカルロ、ニューヨーク、そしてロサンジェルスといった表舞台を遠ざかり、ひっそりとベルリンの街の一角に眠る(眠っている)とは、人と世俗の緊密さにおいて、感慨深い。
 ところで、“リブロポート”という出版社の名前は、私の脳内に強く刻み込まれている。この『Pola Woman』も“リブロポート”出版で1994年刊である。ヘルムート・ニュートンという奇才の写真家の写真集が見たかったらリブロポートは外せない。  90年代前半、まだ私は20代そこそこで、こうした“上品な”写真集を入手するだけの知慮も私費もなかった(渋谷PARCOの“LOGOS”に憧れた)。あくまで噂の範疇でニュートンの写真を空想し、夢想し、専ら、その絵面を思い浮かべては、エレガントなモデル達の優雅なニヒリズムを愉しむ以外になかったのだ。
§
 今、ここに『Pola Woman』がある。もしこの写真集を1994年当時眺めることができていたならば、もしかすると私は、その未…