愛と幻想論

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年2月24日付「愛と幻想論」より)。

 それはラブレターのようである。

《あなたはショーが終わって、僕が控え室で化粧を落としている時に、じっと横目で僕のことを見ていましたね。僕はそのことがひどく気になって気になって、『何だろう、この人は』と思いました。僕の油まみれになった汚い顔を鏡に映していると、何だかあなたの心が透き通って見えるようでした。
 化粧落としを終えて、あなたの横を通り過ぎる時、あなたが誰とも違った光を放っていたのを覚えています。それは僕にだけ分かる光でした。僕が戦い終えても、疲れ果てた体を癒すだけの優しさを、誰に求めることなんてできません。そこには、短い休息の時間と、そよ風のような静かな呼吸があるだけです。
 あなたは僕を見つめていたのですか。
 あなたは何かを感じたのですか。
 僕はとうとう、それに気づくことができませんでした。僕はあなたの目を見ることさえできなかったのです。どうか許してください。こんな僕の思い違いをあなたはどう思いますか。僕のことを笑いますか。
 でもあなたは、僕に話しかけてくれた。そのために、あなたは僕にとって特別な存在になり、あなたの遊び半分の優しさを、愛と幻想する苦しみに陥ったのです。それでもあなたは、僕のことを笑いますか。あなたの手を握って、こんな幸福が自分に訪れるとは夢にも思わなかったことを、ただの思い出だけにとどめるなんて、僕にはできません。
 ですから是非、あなたとお会いして、もう一度話がしたいのです。自分のことを棚に上げて、あなたの前の彼氏を中傷するなんて、卑劣だと思いますが、あなたは僕に『私と付き合って』と、はっきり告げたのです。僕はその時、答えることはできませんでしたが、月日が経って、あなたが必要だということを実感したのです。
 酔っていても、あなたの言葉は僕の心を突き刺しました。僕は、あなたに『愛している』と一言、言いたいのです。あなたに会って、はっきりそう言いたいのです。たまらなく恋しくなる夜を、あなたはどう過ごしていますか。
 あなたは僕のことを忘れてしまっても、僕はあなたのことを覚えています。この抑えられぬ気持ちを、どうか理解してください。あなたは僕の心を奪ったのです。心を奪われたことで傷ついた僕を、尚も苦しめるのですか。
 誰よりも素晴らしい恋を、僕は見つけてしまったのです。奥深い胸の内で発火する恋を、感じてしまったのです。あなたの恋が真実なら、もう一度あの場所へ来てください。僕は待っています。必ず来てくれることを祈って待っています。どうか僕の気持ちを察してください。そしてこれ以上、僕を苦しめないでください。9月5日》

 それは自己の煩悶のようである。

 詳細な日付が定かではないにせよ、それは1995年から1997年のいずれかの日に書かれた作文であることは間違いなかった。また、小説の一部を創作したような作例のたぐいでもなく、自身の想念を切り取った紛れもない「記録」であることも確かである。しかし、自分自身が後年にこれを読んだ時――まさに今がそうだが――一体「誰」に対しての想いであったのか、確かなる証拠は何一つないのだ。
 その曖昧な「対象者」へのラブレターの範疇として、全体像が次第に抽象的に感じ取られ、いつの間にか私はこの短文を何かの作例のような扱い方で、エッセイ群の中に紛れ込ませた。それはむしろ軽い判断であった。

 改めてこの文章を精読し、つい数十分まで、自分の中でその「対象者」を導き出した。もしも次の瞬間、偶発的な些末によってこれを閉じていたら、私はおそらくその間違いに気づかず、その「対象者」を後年にわたって誤認してしまっていたであろう。だがそうではなかった。ラブレターに綴られた真実の「対象者」はまったく別の女性であることに気がついた。

 思いがけずその女性の顔を思い浮かべてみると、その時の情景すらもありありと思い出すことができた。しかし――。

 一見すればただの気恥ずかしいラブレターに過ぎないのだが、この文章を書いたのは、その「事件」の直後ではなく、数年後の、そうした想念から逸脱した環境の中で書いたのだということを悟った。(であるが故に、これが単なる作例であると過誤の解釈につながるのだが)「恋愛」という感情が言葉の表現に限らず、とどまらず、ありとあらゆる表現の源泉となり、瞬く間に自己の社会活動の力点になり得ることを、証明しようとした。活き活きとした詩や歌を創作しうる、至高の瞬間を得ることができる芸術的な感性の源の証明。「恋愛」のない感情の中では、大凡それらが水平の表現に行き着き、情念的な「際」が見いだせない。ところが大きな「恋愛」沙汰に突入すれば、途端にそれが垂直に高く伸び、情念的な「際」がいくつも生まれる。そうしたことに気づいた時、あの「愛と幻想」というラブレターが違った光を放っていることを感受することができた。

 酩酊における「事件」は一瞬にして過ぎ去った。むしろ事実として露出する間もなく、当事者が一瞬ささくれ立った棘を抜き取り、時の経過と共に平静を装ったとみるべきで、その後に当事者が事実を煽り立てる必然もなかった。
 一方、「書く」という過去の暴きの行為によって、捨てられたはずの微細な棘が実はまだどこかしらに残っていることを知らしめ、時を隔てて事実が露出する。遙か過去に忘れられていた身体の疵の疼きが甦り、忽然と生乾きの感情が体内に染み渡る。

 忘れた「ふり」をするのは容易なことではない。「書く」という行為と体内に残っている疵とが共犯関係になり、表現の源泉となるのと同時にして、新たな内向への採掘が行われるのである。

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