「現実の奥底」から

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月27日付「『現実の奥底』から」より)。

 その言葉の持つ意味が、端的に明滅した一つの事例を挙げたいと思います。

 私が岩波の『図書』3月号より、内山節氏の「現実の奥底」を徐に読み始めたのは、3月11日以前でした。

《その「現実」は本当の現実なのか》

《この問いは現実という概念がたえず跳躍のなかで生成するということを私たちに教える。自然との関係を感じとったとき、私たちは自然の現実を知り、その自然との結びつきのなかにある人間の現実を知る。死者との関係をつかむとき、死者の現実も、その死者とともにある生者の現実も知る。たとえば敗戦後の人々は、戦時下のおびただしい死者たちとの結びつきのなかで、平和という現実をとらえた。ここでも現実は跳躍のなかで生成されていたのである》

 内山氏は題にある「現実」(の)「奥底」をレヴィ=ストロースとエリボンの対談集『遠近の回想』(みすず書房)の一文から引き出していますが、「戦後的日本神話」という言葉を用いて、日本という国家におけるその「神話」の背後に潜む様々な社会的矛盾についても説いています。そうして《矛盾だけが深まっていく時代を迎えることになった》と。

 私がこれを読んで興味深く注視したのは、「現実の奥底」の冒頭で挙げられていたロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』(1967年)という映画、そして玉野井芳郎著『生命系のエコノミー』(新評論)。

 前者は、過酷な現実の中で孤独に生き、悲惨な末路を遂げる少女の物語であり、後者の著者は《環境問題や原子力発電などの巨大技術への批判、地域主義の追求などをとおして独自の理論をつくりだそうとした経済学者》と内山氏は評しています。

 「現実」という言葉は、日頃とかく抽象的、観念的でありながら、その薄皮が剥がれて目の前に傷口がぱっくりと見えたとき、はじめてその本質つまり「奥底」を覗くことができる――それを私は“3.11”を経過して、頭を叩かれたような思いで痛感しました。内山氏の書いた「現実の奥底」は抽象論でもなんでもなく、まさにその形として目の前に現れたのです。

 きわめて過酷な現実、重たく険しい現実を、我々は尚も生きなければならない――。多くの矛盾を孕んだ人間主義からの脱却と、現実を見つめる冷徹な視座と、そして温かな心を拠り所とする共同体の連帯。これらをうまく紡ぎながら、我々は前へ前へと一歩ずつ進まなければならないのだと思います。

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