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伽藍の夏

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年6月8日付「伽藍の夏」より)。

1992年創作短篇「伽藍の夏」より


 私の人格を支えているものとしての根底、それがどうやら、谷崎政彦の存在であった。彼との些事はあまりにも少なすぎた。私の記憶の深いところでは、その少ない思い出を一点に凝縮し、明確にしているにすぎない。結局、彼の存在は、私の「生」における想念の範疇にあったように思われる。私は彼との思い出を、その想念の範疇で育て上げ、大切に守ってきたのである。

 彼――谷崎政彦との出会いというものは、しごく凡庸であった。私が山野小学校へ入学した時からの友人であったが、一、二年生までは同じ学級になることがなかったため、それまで会話をしたことがなかった。三年生になって初めて、私と彼は同じ学級になり、友達としての付き合いはここから始まった。が、ここで出会ったことの意味は、むしろ身体的な出会いであり、それ以外の内面性は非常に乏しかった。この年頃の人間関係というのは、実に不均衡なもので、身体的なコミュニケーションから、徐々に精神的な深いコミュニケーションが生まれるという無意識の秩序によって営まれるのではないだろうか。

 山野小学校ではその頃、新校舎建築のため、しばらくの期間、プレハブ校舎による授業を行った。それも夏に…。我々三年生は、そのプレハブの蒸し暑い教室の中で授業を毎日受けたのである。室温はどれほどであったろう。顔から脂汗がだくだくとこぼれ、我々が渇望したのは、とにかく水泳の授業であった。先生の話などろくに聞かず、ぼんやりとプールに泳ぐ自分を夢想していたのは、私だけではなかったはずだ。
 あまりの暑さでどうかしてしまったのか、我々はその頃、妙な遊びに夢中になった。臨時のプレハブ校舎の北側は常に日陰であったため、雨が降った後も水たまりがあちこち残っていた。六月の梅雨時から水たまりが増えており、私と谷崎は、この比較的涼しい場所で遊べる妙案を思いついたのである。
 それは、湿ったところに生えていたコケを引っこ抜いてきて、その水たまりにコケを植え栽培する、という遊びであった。私と谷崎は、毎日のようにここに来てコケの移植を始めた。コケを移し替え栽培するという無意味な作業こそ、私には最高の遊びのように思えた。
 現に、その無意味な遊びは伝染して、級友5、6人も参加する異常な事態に発展した。到底、大人には理解できない領域であった。この損得のない夢想的な能動が、光り輝く黄金の卵に見えていたのだから。
 そのコケ栽培は永続した。進級しても続いた。今となっては嘘のような話だが、これが本当に長く続いてしまったのである。新しく変わった男の担任は、植物採集とクラシック音楽が好きな理科系の先生であった。植物採集は、日曜になると、児童を渡良瀬川の河川敷に連れだし、一緒になって花を楽しむということがあった。

 ある日、谷崎が植物採集に連れて行ってもらえることになり、彼はそれを楽しみにしていた。その日の午前は、例のコケ栽培のために私と二人で学校にいたのだが、午後から植物採集があるので、谷崎はしきりに時間を気にしていたのである。
 ところが、コケ栽培に思いの外熱が入り込んでしまい、彼は途中で植物採集に行くか行くまいか悩み始めた。やがて気持ちがコケ栽培の方に支配されると、谷崎は午後からの植物採集には行かないと言い、引き続きコケ栽培をやろうということになったのである。
 この時私は、谷崎の決断に対して、内心とても嬉しかったことを覚えている。彼の決断は、その場にいた二人の少年の友情を一段高く深めたに違いなかった。決断後の数分は、おそらくこの世のどんなものよりも美しい、清爽とした絆の結びつきを感じられたはずである。しかし、私の心の糸口は、そこまで理解しようがなかった。ただ彼の決断によって、コケ栽培が継続できる嬉しさだけがあり、彼との友情を深めることができたという意識はまったくなかった。

 絆の問題――その内的宇宙の存在感は、一定でなく常に変容し、この時、それによって自己の形成が育まれるという相対的な感覚は、私の中にはなかった。そういった意識の危うさが、後の彼への「度が過ぎた悪戯」を引き起こしたのである。
 休み時間、クラスの男子の大半が、悪ふざけをして谷崎の体に次々と乗っかっていった。彼は一番下でもがき苦しんでいたが、私はその真横で谷崎の体をくすぐり、彼が真顔で苦しんでいることなど気づかなかった。ようやく男子たちが引き上げると、谷崎はぐったりとしたままで、そのうつぶせの体勢で涙をこぼした。私はその時やっと事態に気がついた。
「ごめんよ。許してくれるかい?」
「…ああ。許すよ」
 涙を拭きながら彼はそう言ったが、私の心に困惑と憂鬱が芽生えた。さらに彼との関係において、何か重いものを背負った感じがして、私にとって生涯忘れられぬ起点となった。

*

 四年生も半ばを過ぎる頃になると、徐々に私と谷崎の間に心理的な格差が広がっていった。やがて彼は手の届かぬ存在になりつつあると予感し、困惑と憂鬱とを消すことはできなかった。しかもそれは、彼の家庭環境にも関係していた。谷崎の母親は、同じクラスにいた早苗の母親と親しかった。早苗は、二年生の時にこの山野小学校へ転校してきた女の子で、学年で一番好かれた少女であった。私は、早苗と谷崎の間柄を知りたかった。それは、早苗と家族ぐるみで仲が良かった谷崎への妬みでもあった。
 私は、彼への妬みの感情によって、自分が早苗を愛していることに気づいた。そしてそれが、決して純真無垢な感覚でないことを悟ると、谷崎への友情に圧迫感を抱くようになり、相対して早苗への愛情を自己確認するようになっていった。そうして次第に、谷崎との親交は薄らいでいったのである。

 私は心から早苗を愛した。そのかたちとして、彼女には定期的にノートをプレゼントするようになった。
「ありがとう。大切に使うね」
 彼女がいつ自分の方に気を寄せてくれるか、渇望の日々が続いた。学校生活は、私と早苗のための背景となり、早苗を軸とした学校生活は楽しくてしようがなかった。だがそうした思惑の学校生活は、長くは続かなかった。ついに早苗が、山野小学校から転校することになったのである。
 行き先は栃木県のA市であった。私は、悲しみのあまり、目の前が真っ暗になった。早苗への恋い焦がれる気持ち、ノートのプレゼント、早苗の柔らかい笑み、それらがすべて粉々に砕け散った瞬間であった。彼女の転校の話が学級会で告げられて以後、楽しかった学校生活の期待は暗転し、灰色の煙によって見えない毎日に変貌した。
 ある日、担任は早苗に質問した。
「早苗、先生から何か本をプレゼントしようと思うんだけど、何の本がいいかい?」
 早苗はしばらく考えて答えた。
「ワシントンの伝記…」
 そのやりとりは、ほとんど担任と早苗だけの内に秘めた会話であった。担任は、明らかに早苗に特別な感情を抱いている。他の生徒にはありえない特別な感情。まるで魔法を唱えているかのようなゆったりとした言葉によって、早苗はその魔力の磁界に引き込まれていた。

 後日、約束通り担任は、ワシントンの伝記本を持参し、それを早苗に渡した。早苗は喜んで受け取った。私は羞恥に陥った。自分が早苗にあげたノートと比べ、担任の持ち出した伝記本は、それを遙かに上回る質量の愛情に見えた。あの伝記本一冊によって、私が早苗に尽くしたそれまでの行為は、何とも汚らしい陳腐な行為に思われたのである。
 おそらく、早苗は、あのノートを焼き捨てるであろう…いや、その存在すらもう忘れているのだ…誰の手からわたってきたことさえ…。さらに私の心は漂白した。
 こうしている間にも早苗は、両親に連れられて谷崎の家を訪問するだろう。谷崎は早苗に別れを告げ、早苗も谷崎に別れを告げる。そこには一つの筋書があって、早苗は主人公を演じ、己の感情と照らし合わせながら役をこなしているのだ。無論、その筋書には、登場人物としての私は含まれていない…。

 早苗がA市へ旅立っていったのは、それからしばらく経ってからのことであった。私は一気に孤独になった気がした。もはや、その反動が谷崎へ傾くことはなかった。何故なら、私の思念において、谷崎も早苗に同伴して去っていったも同然であったからである。
 私の小学4年の思い出は、谷崎とのコケ栽培と、早苗への恋であったが、自己の中の思惑は複雑に連鎖し、結局、彼女の転校によってそれが見事に完結した。早苗の演じた筋書きには、私の登場はなかったものの、彼女は私に最大の筋書きを用意した。谷崎が宮城県へ転校することになったのは、小学5年の秋である。彼とは学級が離れてしまい、その噂は誰からともなく教室の垣根を越えて私の耳に届いた。
 しかし私は何故か動揺しなかった。谷崎の学級では、彼の送別会をやることになっていた。また、友人との個人的なパーティもやるらしいとの噂は、あらゆる情報に紛れて伝わってきた。

 ふと気がつくと、隣の学級には彼がいなかった。送別会が済み、パーティが終わったということ、そして彼が去っていったということの3つ情報は、まったく同時であった。不思議なことに、その3つの情報の詳細は、何一つ噂に流れず、私の耳には入らなかった。別離の恐怖は、そのものの恐怖ではなく、何か恒久的なものの破綻に近かった。
 私自身は理不尽と感じられた秩序に飲み込まれ、早苗はA市に去り、谷崎は遠く宮城県に去った。それぞれを忘れることは可能であったかもしれないが、それ自体は私の生の根幹であったし、人格を支えているものとしての根底である。為す術がない。彼らが去っていった後の、私の目の前に広がった世界は、まるで廃墟のようであった。
 しかし、私にはそれが見えなかった。もしその廃墟の影が見えていれば、早急に彼らへの書簡を通じて、訣別の意を伝えられたであろう。廃墟が見えなかったからこそ、あの時期において、彼らとの糸は切れてしまったのである。

*

「早苗ちゃんは私なのよ」
 真紀子のその言葉は、苦々しくも確かに私に対する勇気づけであった。だが到底、早苗にはなり得ない。たとえ本当に早苗が真紀子になり得たとしても、それが私の目の前にいるはずはなかった。
 真紀子は私にコーヒーを注いでくれた。このコーヒーの苦みは、あの時の谷崎であり、早苗のように感じられた。私はあれ以後の彼らの人生を知らないのである。
 そこで私は、新たな想念を抱いてみた。
 早苗は私を愛していた!
 谷崎はあの後も私との思い出を忘れなかった!

「現在という特殊な現実を認識しなければならないわ」
 私の新たな想念は、瞬時にして崩れた。その想念の、実に空虚なこと、現実的でないこと。私にはちっともそぐわない事実のような気がした。そしてそのことを真紀子に話した。
「二人の転校は、あなたが拵えた現実なのよ」
 私は、その真紀子の言葉を待ち望んでいたのであり、それこそ最も信憑性のある事実だと思った。その言葉の旋律には響くものがあった。あの時、自身は何も手を下していなかったが、彼らは確かに自身の間接的な影響によって姿を消したのではないか。彼女の言う《現在》という特殊な現実の認知によれば、その仮説は成り立つのである。
 真紀子は、私が飲み干した後のコーヒーカップを見つめながら、こう言った。
「あなたはついに、その力を自分の死のために使うのね。それには反対だわ。だって、まだ私という人間がいるんだもの」

短篇「伽藍の夏」【補遺】


 「伽藍の夏」に登場する小学4年の早苗(仮名)にまつわるいくつかの思い出は、その後に降り積もる長い年月と私自身の感受性の振幅によって、時に忘れられ、時に思い出されたりと、その繰り返しを続けている。

 「小学4年」という1年、つまり私にとっての《1982年》は、思い出深い些末が無数に鏤められた、言わば生涯においても“珠玉”と言い表すことのできる奇跡的な1年であったし、精神と肉体の極めて未成熟な葛藤こそが礎となり、忘れ得ぬ些末として逆に沈殿されていったとさえ思われる。
 あの時、担任の先生が数ヶ月の間、水戸へ研究出張のために教室を離れる…その間、臨時の若い女性の研修先生がやってくる…そして別れの期日が訪れ研修先生が去る…担任の先生が水戸から戻ってくる…といった濃厚な日々の変遷。あるいは子供にとっての大事件の連続。私自身はそうした状況の中で、少しばかり“早熟な”、淡い恋愛経験をしていたことになる。

 ――その日の音楽の授業の最中、突然担任が早苗を傍に呼び出し、小声で内緒話をし始めた。私は内心、気が気ではなかったし、非常にそれが長い時間のように感じた。
 だが、その会話の成り行きの結果はすぐに目の前に表れた。早苗はグランドピアノの椅子に座り、カヴァーを開け、一瞬の静寂をも踏み台にして、勢いよくある旋律を奏でた。それはベートーヴェンの「エリーゼのために」であった。

 生々しく反響するピアノの打弦の音が、反復して私の耳の奥に到達するやいなや、曲としての旋律というよりも、何か音の総体的な、有機的な何かを取り込んだ新鮮な感覚があって、脳内に強い電流が走った。早苗の感性の、持ち前の優しさであり明るさであり、そして知性を思わせる柔らかな響きであり、時にそれは虚しく悲しい、とてつもなく暗い音色にもなった。それを一心不乱に奏でている彼女の愛くるしさは、私の心の深奥を浄化しつつあった。早苗の指先とピアノとが一体となり、その時間は無限とも思われ、彼女の魂は天上へと高められていくかのような、神秘的な映像を私は想像した。

 その日以来、私にとってベートーヴェンの「エリーゼのために」は特別な曲となった。むしろそれを聴くことをためらい、曲と彼女とを同化させる幻想を抱き、封印した。

 何故今、それを思い出すのか。脳内にしばし駆け巡るあのピアノの旋律が、今も尚消えることがないからである。
 「音」という実体――。
 時間の止まった少女のままの早苗――という存在が、命が続く限り私の心に宿ることを、見えない実体が私に耳打ちしているのだ。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

石内都―Infinity∞

私がトノ・スタノの作品が観たく、『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』が催された東京・銀座の資生堂ギャラリーへ訪れたのは、もう6年も前のこと。それは2010年8月であった(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)。それから今年の夏、『Frida is 石内都展』 を観ようと、同じく資生堂ギャラリーを訪れたのだけれど、ギャラリーの手前まで来て急に、“突発”の用事に襲われ、泣く泣く引き返して地下鉄の銀座駅へ落ちていったのである。つまり、私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかった――。
 石内都という写真家の特徴的な作品を、過去、しばし眺める度に、ある2つの作品を必ず思い出す。  一つは映画である。1966年に公開された勅使河原宏監督の『他人の顔』(原作・脚本は安部公房)。そしてもう一つは、文芸雑誌『群像』の2008年3月号に初めて掲載された、大庭みな子著の短篇小説『痣』。これらには共通項があって、それは《喪失》であったり、《傷》といったモチーフで括ることができるだろう。  『他人の顔』は、顔に大きな《傷》を負った男が、別の男の顔の仮面を秘密裡に拵えさせ、他人になりすまし、自分の妻を誘惑するというストーリー。自分が自分という存在を《喪失》し、仮面をかぶってまったく別の人となった時、《喪失》した自分は、その劣等感の反動であらゆる欲望を満たそうと際限なく暴走してしまう悲劇。  『痣』は、原爆が投下された直後の広島の町にて、無残な顔になった友人の恋人に声をかけられず、戦後、友人に再会しても恋人を見かけたことをとうとう告げることができなかった主人公の懺悔。痣とは、ここでは主人公が精神的に負った《傷》と受け取ることができる。
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 私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかったので、彼女の写真集『石内都 Infinity∞ 身体のゆくえ』(求龍堂)を眺めることにした。この写真集は2009年、群馬県立近代美術館にて催された同題の個展をカタログ化したもので、彼女の80年代後半からの作品が数多く収録されている。
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大阪万博と音響彫刻のこと

久方ぶりに個人的な“大阪万博”熱が再燃するような、そんな興味深い新聞記事に出合い、そのクラウドファンディングの主旨に賛同し、些かの支援の企てをウェブ上で取り計らった。このネット出資が功を奏するかどうかは現時点では分からない――。しかし、“大阪万博”に対する憧憬と抽象音楽への深い関心の交差は、紛れもなく私自身を一瞬にして突き動かした。このプロジェクトが無事に成功してくれることを祈る以外にない。
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