いソノてルヲ先生の思い出【補遺】

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年8月26日付「いソノてルヲ先生の思い出【補遺】」より)。

 月曜の講義は午前午後を通して比較的閑暇であったため、だいたいアメ横界隈をぶらりと散歩し、上野駅の「更科」という食券前払い制の立ち食いソバ屋でカレーライスを食って、ホームで帰りの電車を待つ――というのがその頃の私の“定番”の日常になっていた。ちょうど小劇団立ち上げに携わっていた頃であったし、学校帰りに地元の稽古場へ向かう、という選択肢もあったが、私は敢えてそうしなかった。

 最初のうちは、学校での勉強のすべての内容は、当然演劇活動に関して強固な礎となるはずと確信していた。が、東京と地元との地理的な隔たり、とかくそれは文化圏の差異であるとか価値観の違い、あるいはプロとしての仕事の考え方などで、メンバー間の相違があった。
 初めこそ微細な差異であっても、やがてそれは大きな違和感となり、疑念へと変容する。気がつけば小劇団は地元色が強くなっていき、私の考え得る本分――学校で学んだこと――はほとんど活かされなかった。従って、手持ちの[千代田ノート]を稽古場に持ち込むことは、心理的な軋轢を生むだけで、かえって不条理となり、学校帰りに稽古場に向かうことは自分の中で御法度とするしかなかった。

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 西村潔監督の映画『ヘアピンサーカス』(1972年作品)などといったものを、もし10代の中頃までに観て知っていたならば、私は目の前にいるいソノ先生に、菊地雅章さんや笠井紀美子さんのことを、授業を離れた何らかの機会で訊いたであろう。それは後年における後悔のうちの一つの例に過ぎない。90年代の音楽シーンがどうなるとか、どんな職探しをすればよいか、といったたぐいのことを先生から聞き出すのではなく、単に自分が『ヘアピンサーカス』が大好きで、そしてあのクールでジャズ界の印象派とも言えるサウンドを生み出した菊地さんについて、一ファンとして深く敬意を表すと共に、その思いの丈をいソノ先生に聞いてもらうことができたかも知れないのだ。

 自ら筆記した2年分の[千代田ノート]が今でもバインダーに残っている。調べてみると、聴講の色合いが強かった「アメリカン・ポップス」の講義の筆記は、たった1枚しかなかった。
 その部分には、〈ゴスペル・ミュージック〉という括りで、「マヒリア・ジャクソン“ゴスペルの女王”」と記されている。いソノ先生が黒板に書いたものを写したのではなく、先生のラジオ番組の中の語りを耳に頼ってメモしたために、“マヒリア”になってしまったのだろう。

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