理と思想について

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年9月22日付「理と思想について」より)。

 昨日の午後――。楽曲「ママのそばで」のために鍵盤に向かうこと3時間。ある瞬間から、自分がどれだけ集中しているかも気づかぬほどのめり込み、ようやく一息着いた頃、辺りは真っ暗で、外からゴーゴーと暴風雨の音が聞こえてきて、我に返りました。

 今まで経験したことのない暴風。そして強い横殴りの雨によって一箇所、壁から水が滴っていましたが、それ以外は特に被害なし。外の様子への好奇心があっても、窓ガラスの隙間を開けることさえ危険を感じたのは、本当に初めての経験でした。

 それに加えて、夜には余震が起こった――。

 1ヶ月前、グールドのピアノCDを聴くために用意していた漱石の文庫本『文鳥・夢十夜』(新潮文庫)。それをとりあえず“1ヶ月ぶりに”書棚に戻した際、逆にポロリと別の本が1冊落ちて、手に取りました。

 私は何の気構えもなく、その本の解説をだらだらと読んだ。せっかくだからこの本を最後まで読んでみようと腹を決めたのは、朝日新聞朝刊の「定義集」【古典基礎語と「未来の人間性」】「過去の表現 次世代のヒント」をあらかじめ読んでいたからです。

 私がその本を読み続けようと思った別の理由としては、近々、つくばの「万博公園」を訪れる際の電車での、退屈しのぎにも良いだろうということであり、大江健三郎氏が『古典基礎語辞典』(大野晋編)に触れて述べられていた《未来の人間性》という言葉に気が向いたからです。

 ポロリと落ちた本の最後半には、かなり傷んだ中古本であるが故に、元所有者の断片的なメモが書き込まれていました。それすらもジェイムズ・ジョイスの小説的策略かと面白い偶然を感じたのですが、ジョイスのこの『若い藝術家の肖像』も、神話と現代とを結びつけ、網の目のようにばらまいた言葉の《片》を、《未来の人間性》という観点からとらえたらどうであろうか、という文学的実験を行ったように思われるのですが、《未来の人間性》の「未来」を、自分自身と繋がった後裔と解釈するか、あるいは自分自身を疎外した「未来」と解釈するかによって、この言葉の思想的価値は随分と違うでしょう。

 これは非常に難解な思想=未来への直感力であるけれども、私が(科学の)「万博公園」(跡地)を訪れたい高揚した気分と、大江氏が言葉によって体を表そうとしている“脱原発”も、ほとんど同じ感覚のものであり、そうした各々の時代の言葉によって産み落とされた俗科学(文学・小説なども含まれる)と、実際的な純科学(地球物理)とのせめぎ合いの中で、反撥を乗り越えながらも批評的再認識をしていかなければならないのではないかと思うのです。

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