孤独と神話

 フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルが演奏する「ロンドンの小景」について書こうと思っていた。が、この稿ではそれを書かない。ただし、「ロンドンの小景」を聴くと、私は必ず、小学校時代のある友人を思い出す――。

*

 小学校で同級生だったその友人O君とは、学校以外の場所で遊んだり出会ったりしたことがまるでなかった。しかし学年毎に度々同級生となるので、校内ではそれなりに親しい間柄ではあった。ちなみに、中学に入ってからO君は、ブラスバンド部でトランペッターとなり、その小柄で健やかな笑顔が卒業アルバムの一枠に掲載されていて、この時の(この中学3年時の)印象のまま、私のO君の記憶は止まったままになっている。さらに述べれば、20代半ばのある日どこかで、私はO君を見かけた。赤ん坊を乗せた乳母車を押して細君と一緒にデパートで買い物…といった雰囲気だった。

 話を小学校時代に戻す。私の記憶が間違いなければ、彼はサッカー少年つまりサッカー少年団の一員であった。いま考えると、彼がサッカー好きだったというわけではなく、仲間がサッカーをしているから自分も、といった感覚でサッカーを続けていたのだと思う。朝練の他、昼休みでは必ずサッカーをやるために仲間と校庭へ、もちろん放課後は少年団の練習である。ひっきりなしに忙しく、それが卒業間際まで続いた。一方、学業の方は真面目な秀才タイプで、言うなればスポーツもそつなくこなすオールラウンド少年であった。

 何がどうしてそうなったのかは分からないが、たった一度だけ(6年間でただ一度だけ)、放課後、彼と二人で帰宅したことがあった。思い起こせばそれは、彼のある一つの企みがあったからだった。

 教室に居残った私とO君は、学校を出る前に図書室に寄ろうということになった。こうしたことは極めて珍しいことだった。何故なら彼は、いつもならサッカーをやるために校庭に出掛けなければならないのだが、その日はどういうことか、彼はユニフォームを着ていなかった。サッカーをやらずにまっすぐ家へ帰るのだという。
 しかしその前に図書室へ寄る――。
 ある企み。そのために私を誘った、ということがなんとなく分かってきた。

 誰一人としていない図書室。電灯も点けていない。彼はある本を手に取って、図書室の隅に座り込んだ。そこはたとえ、誰かが入室してきても、おそらく居ることが気づかれないであろうという秘密の一角。
 彼が手に取ったのは、詳しい図説に富んだ、性教育の本であった。ちょうどその頃、学校の図書室に男子用と女子用の2冊の性教育の本を置くようになった。児童らがそれらを見て、何かしら衝撃を受けたのだが、真面目に読む者はほとんどいなかった。休み時間に多勢でそれらを開き、ふざけて女子に見せつけたりして、男女共お互いがはしゃぐための遊び道具となっていたのだから。

 そうした遊び道具と化していた性の本を、O君はひっそりと、暗がりの中で深刻に、読み更けようとしていた。傍にいた私はそんなO君をからかうつもりでいたのだが、あまりにも彼の表情が深刻であったために、私は彼の傍に近寄ることができなかった。この時の情景は忘れもしない、私の中で厳粛な気持ちで受け止めざるを得ない一つの美しい《神話》となった。

 時空を超え、やがて、彼の乳母車を押している光景に出くわした時、私はその《神話》を思い出した。むしろあの時のそれがその瞬間まで生き続け、具象となったのだとも思った。
 O君がとある社会人交響楽団の公演で「ロンドンの小景」のトランペットを吹いた、という話を、ごく最近になって私は知った。その公演は10年ほど前のことのようだった。

 私はもう一度神話を呼び起こした。
 あの時の情景を。
 ありふれた日常から昇華した、見事に稀有で、白銀の後光が照り返る美しいものを。

 少年が世の中という外野に対し無防備かつ純真で対峙するように、純朴と純潔とが合致した小さな身体で挑むその雄姿を、これほど美しく眺めた記憶はない。彼の瞳は水晶のように透明に澄んでいて、あの本の中の《裸体》をその内輪に反射させ、じっと堪えている。青く輝いた旋毛から噤んだ唇の潤いの美。その映像はまさしく両眉をきりりと引き寄せた阿修羅像であった。彼は終始、私の存在に気づかなかった。

 私は孤独というものをあの時初めて知り、生まれてくる子供の気配を夢想した。そうであった。O君は子供に向かってトランペットを吹いたのだ。

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