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漱石のこと〈一〉

※以下は、夏目漱石に関して拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年7月20日付「漱石と私」より)。

 私が夏目漱石の文学に傾倒していったきっかけについて書いてみたいと思います。

 既に、このブログの中で私が幼年時代に百科事典に触れたことは書きました。その事典は何であったか――『原色学習図解百科』(学研)と『学習百科大事典』(学研)のいずれかの「明治時代」「文明開化」の項で、誠に鮮烈な“朱”の色をやはり幼年時代に見たのです。

 そこでの鮮烈な“朱”の色とは、明治の文明開化を象徴する煉瓦塀の朱色であり、また鹿鳴館のイラストの中の朱色でした。そのページを開くと一瞬にして、そうした19世紀日本の、古い時代へのなんとも言い難い好奇心と愛着感が沸き上がってきました。

 いま考えれば、それが“日本史”への興味・関心へ広がっていったのだと思いますが、小学2年生の時、テスト中に答案用紙の裏に、日露戦争の図絵を書いて担任の先生をびっくりさせたことがありました。日露戦争当時の軍服、明治天皇の顔、乃木希典の顔、二百三高地で国旗を掲げる兵隊をHBの鉛筆で線描し、自分としては明治へのある種の憧憬や郷愁に耽っていたのです。その頃読んだ、朝日新聞社が発行した明治・大正・昭和の朝刊縮刷版の本の影響や、母方の実家が広島の呉で、その年の夏休みに呉に行って実物の潜水艦を見たり、江田島の海軍兵学校などを訪れたりしたこともその背景にあります。

 そうして、家にあった――姉が所有していた――漱石の『三四郎』の本が、漱石文学の最初の出発点であったと記憶しています。小学2年か3年の頃でしょうか。

 とは言え、それを精読してどうこうという話ではありません。確か、少年少女向け日本文学全集的なポプラ社あたりの『三四郎』だったのですが、子供なりに本の装幀に興味を示し、“サンシロウ”という題のあまりに単純な、子供向けに感じられる印象とがあり、何度も何度もその本を開きました。

 しかし開くだけで、読むことはしなかった。

 読んだのは、いつも冒頭の部分だけです。

《うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。この爺さんは慥かに前の前の駅から乗った田舎者である。発車間際に頓狂な声を出して、駆け込んで来て、いきなり肌を脱いだと思ったら背中に御灸の痕が一杯あったので、三四郎の記憶が残っている。爺さんが汗を拭いて、肌を入れて、女の隣に腰を懸けた迄よく注意して見ていた位である》

 うとうととして眼が覚めると…背中に御灸の痕が一杯あったので――の文章の断片を繰り返し繰り返し読んで、本を閉じる。そしてまた何日か、あるいは何ヶ月か先かでまた『三四郎』を手に取り、うとうととして眼が覚めると…背中に御灸の痕が一杯あったので――を読み返す。この冒頭の部分に明治時代の暮らしの空気が表されているようで、私は強く関心を抱いた…いや、関心を抱くというより、むしろ自分自身がその物語の中に入って、明治人に成りきる瞬間を覚えました。

 そうして姉が家を出て『三四郎』の本が家から消えてなくなるまでずっとそんな接し方をしていました。

 もしもっと読み進めていたならば、「広島」や「呉」や「海軍」が出てくることに気づいたでしょう。もしかするとその先を読み進める原動力になったかもしれません。しかし縁というのは不思議なもので、必ずしも縁の結び目は単純ではないようです。『三四郎』をはっきりと読んだのは、成人してからだったと思います。

 同じく小学生の頃、ATG(日本アート・シアター・ギルド)の映画で、新藤兼人監督の『心』(主演:松橋登、辻萬長、杏梨、乙羽信子)を、UHFのローカル局の放映で観たことがあります。1973年の作品です。

 あまりにも剛毅木訥とした雰囲気の映画で――今となっては大好きな映画なのですが――小学生の私にはまったくその大人の機微が理解できず(特に杏梨さんの飄々とした演技が奇々怪々に感じられ)、“明治の文豪”夏目漱石が原作だと知りながらも、手に負えませんでした。

 ただしそれは、逆に漱石という作家が、日本語を使って何を書いていたのか、という興味を抱く礎になります。読み進められない『三四郎』には何が書いてあるのか、『こころ』とはいったいどんな話なのか、と。

 そうしてようやく、高校の教科書に『こころ』が登場します。

 友人が夏休みの感想文の宿題に『こころ』を選び、新潮文庫のそれを買い、高校野球の予選試合を応援しに行くバスの中でそれを知った私は即座に反応し、急いで私も新潮文庫のそれを買いました。

 夏目漱石。

 ある一人の作家に対し、読み手として深く入り込むのに、これほど雑然とした長い年月の成り行きを経なければならなかったのも、不思議な縁であるかと思います。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

石内都―Infinity∞

私がトノ・スタノの作品が観たく、『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』が催された東京・銀座の資生堂ギャラリーへ訪れたのは、もう6年も前のこと。それは2010年8月であった(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)。それから今年の夏、『Frida is 石内都展』 を観ようと、同じく資生堂ギャラリーを訪れたのだけれど、ギャラリーの手前まで来て急に、“突発”の用事に襲われ、泣く泣く引き返して地下鉄の銀座駅へ落ちていったのである。つまり、私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかった――。
 石内都という写真家の特徴的な作品を、過去、しばし眺める度に、ある2つの作品を必ず思い出す。  一つは映画である。1966年に公開された勅使河原宏監督の『他人の顔』(原作・脚本は安部公房)。そしてもう一つは、文芸雑誌『群像』の2008年3月号に初めて掲載された、大庭みな子著の短篇小説『痣』。これらには共通項があって、それは《喪失》であったり、《傷》といったモチーフで括ることができるだろう。  『他人の顔』は、顔に大きな《傷》を負った男が、別の男の顔の仮面を秘密裡に拵えさせ、他人になりすまし、自分の妻を誘惑するというストーリー。自分が自分という存在を《喪失》し、仮面をかぶってまったく別の人となった時、《喪失》した自分は、その劣等感の反動であらゆる欲望を満たそうと際限なく暴走してしまう悲劇。  『痣』は、原爆が投下された直後の広島の町にて、無残な顔になった友人の恋人に声をかけられず、戦後、友人に再会しても恋人を見かけたことをとうとう告げることができなかった主人公の懺悔。痣とは、ここでは主人公が精神的に負った《傷》と受け取ることができる。
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 私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかったので、彼女の写真集『石内都 Infinity∞ 身体のゆくえ』(求龍堂)を眺めることにした。この写真集は2009年、群馬県立近代美術館にて催された同題の個展をカタログ化したもので、彼女の80年代後半からの作品が数多く収録されている。
 彼女の作品を眺める時、私はどうしてもそこから、《花の匂い》を感じてしまう。それはまったくの気のせいであろうか。  写真集の中で、「1906 to the skin」(1994年)と「A to A」(2006年)の作品について考えてみ…

大阪万博と音響彫刻のこと

久方ぶりに個人的な“大阪万博”熱が再燃するような、そんな興味深い新聞記事に出合い、そのクラウドファンディングの主旨に賛同し、些かの支援の企てをウェブ上で取り計らった。このネット出資が功を奏するかどうかは現時点では分からない――。しかし、“大阪万博”に対する憧憬と抽象音楽への深い関心の交差は、紛れもなく私自身を一瞬にして突き動かした。このプロジェクトが無事に成功してくれることを祈る以外にない。
 私が突き動かされたのは、朝日新聞朝刊5月27日付茨城版の「再び響け 大阪万博の『音』」という記事である。「音響彫刻修復へ ネットで出資者募る」という副題に刮目し、興味を持った。掻い摘まんで記事の内容を説明すると、1970年の大阪万博で出展されていたフランソワ・バシェ(François Baschet)製作の「音響彫刻」を、茨城県取手市の東京藝術大学ファクトリーセンターが修復・公開することを目的とし、その資金200万円をクラウドファンディングで(6月末まで)募っている――というもの。バシェの「音響彫刻」は17作品あって、過去に修復された5台以外の12台がこれに含まれる(一部寄贈された作品があるらしい)。
§
 この「音響彫刻」の修復プロジェクトに関しては、バシェ協会のホームページが詳しい。それとは別に、私自身も独自にこの「音響彫刻」について調べてみた。そもそも“大阪万博”でこのようなオブジェがあったのかということに対し、私はこれまで聞いていたような聞いていなかったような、俄に判然としなかったのだけれども、最近、坂本龍一氏のアルバム『async』の中で過去に修復されたバシェの「音響彫刻」が使用されたことを知り、なんとなく朧気な輪郭が見え始めたのだ。そこではっきりと理解するために、当時の“大阪万博”の公式ガイド本(『日本万国博覧会 公式ガイド』)を開いてみた。
 現代音楽の音楽家・武満徹氏がバシェに依頼して作られた「音響彫刻」は、鉄鋼館で出展された。武満氏は鉄鋼館の芸術監督を担っていた。鉄鋼館は、日本鉄鋼連盟主管のパビリオンで、主立った企業を抜粋すると、八幡製鉄、富士製鉄、日本導管、川崎製鉄、神戸製鋼や大阪製鋼、三菱製鋼、日本ステンレス等々で、その他の組合や協会も連なっている。この公式ガイド本によれば、鉄鋼館は、“世界に誇る音響装置”、“古代ローマのコロシアムを思わせる大ホー…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…