スキップしてメイン コンテンツに移動

スピニング・トー・ホールド


 プロレスラーが入場する際の音楽について、自身の思い入れと苦い経験を書いてみたくなった。

 “プロレス”という特殊なジャンルすなわちプロフェッショナル・レスリング・ショーにおいて、その試合における重要な伏線となり、最も効果的に観客の目を惹くのが、選手の入場シーンであろう。
 音楽が鳴り出し、観客の気合いのスイッチがONになる。声援が飛び交う。やがて選手が登場すれば、さらに観客はヒートする。それはスターの登場に対する《歓迎》と《敬意》を意味している。ブーイングもまた《歓迎》と《敬意》の別の形にすぎない。
 選手がリング・インするまでの一つの波、そしてもう一つの波は、選手と選手がリングでしばし相対峙したときにあり、この時、観客の声援がその波に乗って最高潮に達すれば、その試合は既に“出来”ていると言われ、おそらくその日のベストバウトとなるのだろう。

 話を入場曲に戻す。
 私が昔聞いた話では、日本で選手のリング・インで初めて音楽を使用したのは、覆面レスラー=ミル・マスカラスの「スカイ・ハイ」であったという。1970年代のことか。“仮面貴族”、“千の顔を持つ男”で知られるメキシコのスーパースターが来日し、彼のイメージ作りのための演出に一役買ったのが最初のきっかけだったとすれば、「スカイ・ハイ」と共にマスカラスの存在感の功績はとても大きい。

 かつては、名レスラーになるほど、その選手と入場曲との相性、というか結びつきはかなりドンピシャな場合が多かった。
 アントニオ猪木の「炎のファイター」、藤波辰巳(当時)の「ドラゴン・スープレックス」、長州力の「パワー・ホール」、スタン・ハンセンの「サンライズ」 、ブルーザー・ブロディの「移民の歌」など枚挙に暇がない。
 ジャイアント馬場の「王者の魂」、そして三沢光晴の「スパルタンX」は別格である。この二人の入場における観客のヴォルテージの高さは、私のプロレス観戦歴の中で、アヴェレージとしては最も高いと思えた。そのことと選手の偉大さは言うまでもなく、比例する。

*

 さて、私が少年時代を過ごした1980年代前半、自身のプロレス熱に併せてそうした入場曲をレコードで聴く享楽があった。当然、そうした音楽を聴くとき、頭の中でその選手が脈々と動き出すかのようで、聴くたびによく昂揚した。

 レコード・アルバム『THE PRO-WRESTLING』というのがかつてあった。封入されていたライナー・ノーツを読んで驚いた。これらの曲の演奏はオリジナルではなくて、「THE PRO-WRESTLING ALL STARS」というミュージシャンらによる演奏なのだよ、ということが書いてあった。
 これは極めて重要な補筆的記述であった。私は一瞬、まがい物のレコードを買ってしまったのかと思ったが、これらが実は、実際のプロレス会場で使用している曲々なのだよ、とも書いており、溜飲を下げたのを覚えている。つまり、プロレスの入場曲というのはすべて、別の演奏者達によるカヴァーであるということを、この時初めて知ったのだった。

*

 “ザ・ファンクス”の兄弟すなわちドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクの入場曲は「スピニング・トー・ホールド」である。プロレスファンなら誰もが知っている、知っていなければならないファンク・ロックの名曲である。

 曲名ともなっているスピニング・トー・ホールドとは、もちろんプロレスの技で、ドリーとテリーが得意としていた必殺技だ。

《回転足首固め。リングにあお向けに倒れた相手の右足を取ると同時に、自分の左足を軸にL字形にフックさせる。そして、相手の足首を少し曲げぎみにしたまま、自分の体を左足を軸にして回転する。この場合、回転を加えるたびに相手の右足首にも微妙なひねりを加えるのが攻めのポイント》
(竹内宏介著『プロレス必殺技300』小学館より)

 そうした技のことはともかく、ミル・マスカラスにとって「スカイ・ハイ」は日本での人気を不動のものにした守護神であったのと同様、ザ・ファンクスにとっても「スピニング・トー・ホールド」は、互いの兄弟愛とアメリカ・ウェスタンの生き様を見事に合致させつつ具現化した、なくてはならないソウルであった。

 が、しかし――私がその時分、これらプロレスの名曲の“オリジナル曲”を探し求めるといった熱血きわまりない欲情を、逆に完全に“捨てきった”きっかけとなったのが、皮肉にも「スピニング・トー・ホールド」であり、ブロディの「移民の歌」だった。

 「スピニング・トー・ホールド」のオリジナルは、日本のロックバンド=CREATION〔クリエイション;当時のメンバーは竹田和夫(Vo,G)、飯島義昭(G)、松本繁(B)、樋口昌之(Dr)〕の「SPINNING TOE-HOLD」である。これを収録したレコード・アルバム『Pure Electric Soul』(1977年)は、日本ロック史の稀有な名盤だ。
 私は当時、このアルバムを聴けば、よりいっそうザ・ファンクスのプロレス魂が理解できるのではないか、その世界に浸れるのではないかと考えた。が、それはあまりにも子供じみた空疎な論理だった。
 まったく個人的な感想ではあったが、ザ・ファンクスと「SPINNING TOE-HOLD」はまさにドンピシャな相性であるのとは裏腹に、CREATIONのその他の曲とザ・ファンクスとのイメージはまったく噛み合わず、水と油といった感じだった。少なくとも『Pure Electric Soul』を聴いて、あのドリーとテリーの血眼な雄姿を思い浮かべることは不可能であった。
 以来、私はプロレス入場曲のオリジナルを追究することをやめた。

*

 どこかのセンスの良いプロデューサーが、その選手に最も相応しいと思われる音楽を探索し、それをカヴァーして入場曲として仕立て直す、といった特殊な才能と技芸に対して、私のオリジナルを探し求める行為は、そのイメージから大きく乖離することを覚悟しなければならぬ非プロレスファン的な行為であって、むやみに行うべきものではないのかもしれない。尤もこれは、昭和の時代のプロレス界における、カヴァー全盛だった頃の振る舞いであるが――。

 ちなみに、CREATIONのそのアルバムの中で私がいちばん好きな曲は、「TOKYO SALLY」だった。CREATIONのファンクは、アメリカの薫りではない。どこか黒潮の濃厚な塩分が含まれている気がする。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
*
 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
*
 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…