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『煤煙』と平塚らいてうのこと〈二〉

 歴史を感じさせる商店が、ぽつりぽつりと確かに散らばっている。しかしそれ以外は現代的なビルディングが建ち並んでいて、明治の面影を顧みることはできない。朋子と要吉が歩いたとされる、谷中から団子坂を私は歩いてみた。ひっきりなしに自動車が往来して、彼らに思いを馳せることも、また彼らと時代の呼吸を合わせることも、今となっては難しい。

襟巻(ボア)と洋袴(ズボン)と団子坂

団子坂のあたり
《ね、貴方は――貴方は癲癇(エピレプシィ)の症候があるんだとばかり思つた。ね、さうぢゃないか。私一人でさう考へたのかも知れんが、私は如何しても貴方にさうなつて貰ひたい》
(森田草平著『煤煙』より引用)

 既に朋子の心は冷めていた。朋子があの日の夜に掛けていた襟巻は失せていて、要吉もそれに気がついた。いつも歩く道程を朋子は避け、よそよそしく無言を決め込んだ――。

 小説の中の朋子の態度と、実際にそれがあった平塚らいてうの心境とは、ここでは見事に一致する。珍しく朋子の内側の襞が現出した場面であり、無言であることが要吉に対する最後通牒でもあった。

 要吉すなわち森田草平がダヌンツィオの『死の勝利』を頭に思い描くあまり、朋子が癲癇患者であることを彼はひたすら望む。らいてうの自伝によれば、草平はダヌンツィオのみならずドストエフスキーまで持ち出して、癲癇は天才病なのだから、それによって昏睡状態に陥る発作の態(身体美?心理美?)を、彼女に求めたがったという。

 英文学者・評論家で知られる吉田健一氏の『煤煙』評論文が面白く興味深い。

《戀愛といふ言葉は出来てゐても、それが男女間のどのやうな感情を指すものかを、彼らは外國の詩や小説から學ぶ他なくて、それを實地に行はうとする場合、女の方でも、男の方でも、自分がさういふ外國文學から得たと信じてゐる戀愛の観念を先づ胸に描いてみなければならなかつた》
(筑摩書房『現代日本文学全集』第22巻吉田健一著「森田草平集」より引用)

 吉田氏は、男女間の在来の愛欲を越えた何か烈しい感情が彼らにとっては“ラブ”だったと述べ、そもそもこうした恋愛の観念が、外国文学の未熟な読み方から生じた錯覚だとしている。

 実際、草平とらいてう二人が、“ラブ”という抽象的な曖昧な観念の日常的現出をとらえきれていなかったとすれば、らいてうが嫌悪を感じた草平の演技的な接吻(らいてうの袴の裾に)と演技的な愛撫(らいてうの手の甲を取り上げ、二、三本指を口に含んでそっと噛んだ)に対する激しい怒りも頷けるし、また草平が自らそうした接吻と愛撫をすることで、らいてうの心を掴むことができると錯覚もしくは幻想を抱いたのも頷ける。

 草平は履き違えた“ラブ”のドラスティックな態度と行動の相乗によって、らいてうにエピレプシィを要求し、言わば互いに向き合った“ラブ”の確証が得られた暁には、らいてうを殺害し、自ら雪の樺太の独房で生涯を送る、といった夢想を渇望した。このロマンチシズムの渇望劇が『煤煙』のすべてである。無論、この渇望は絵空事、夢の世界、幻想のたぐいであって、本来的な愛の日常的現出ではない。吉田健一氏は草平をも「夢遊病者の一人だった」と言い切っている。

髙山樗牛の『滝口入道』

 らいてうの自伝には、明治36年、当時16歳だった旧制一高の学生・藤村操が哲学的な遺書(「巌頭之感」)を遺して日光・華厳滝で投身自殺したことについて、ほんのわずか触れられている。らいてうが日本女子大家政科の学生だった頃だ。

 以前私は、平岩昭三著『検証――藤村操 華厳の滝投身自殺事件』(不二出版)を読んだ。藤村操が自殺した動機について、いわゆる人生不可解の苦悩という意味の哲学的な煩悶を抱いて自殺したのではなく、失恋によって自殺したという仮説がある。

 後年の作家や研究者らの検証によって、事実としても失恋説が濃厚であると記されてあるのだが、藤村はある本を年上の女性に渡し、自ら愛の告白を済ませた後、命を絶ったとされる。

 その本とは、髙山樗牛の『滝口入道』である。

 そしてらいてうもまた、『滝口入道』はもとより樗牛の哲学や思想論文にも目を通していた。藤村の自殺の翌年、日露戦争が勃発する――。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
§
 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
 物語(あるいは世界観のようなもの)を大雑把にゆるく説明すると、こういうことになる。ここは広大な砂漠。そこには、国と国を分け隔てる「壁」があり、その「壁」と「壁」との間にある砂漠が、“私たちの国”。果たしてこの「壁」は、いったいいつできたというのだろう。仮国境の外にある“向こう側”、“あっち側”との軋轢によってテロ事件が巻き起こり、「わた…

演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
《神奈川県横浜市の中心的商店街で中区にある。東京の銀座、大阪の心斎橋筋などとならび称せられる繁華街。第二次世界大戦後は焼け残ったおもなビルや周辺一帯が広く米軍用地に接収されて復興が著しく遅れたが、現在では活況をとりもどし、各種デパート、商店、映画館がたち並んでいる。この一帯は江戸時代前期、1659年(万治2)の干拓による吉田新田にあたっているが、開港後港を中心とした関内(かんない)すなわち外人向け商店街として開かれ、明治初年に共同して開発にあたった伊勢屋と佐々木氏の屋号をとって、町名にしたという》 (『世界大百科事典』平凡社・1964年初版より引用)
 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
§
 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…