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ロックの犬

ロックの犬
 それは日本がバブル経済真っ只中で、いよいよそれが崩壊を迎える直前の頃。

 高校野球の県大会があり、全校生徒が大型バスに乗って数十キロ先の会場へと出発した(当ブログ「蛙の夜回り」参照)。
 クラス毎に乗り分けられたそれぞれのバスには、美人のバスガイドが乗り合わせているわけもなく、真夏のぎとぎとした蒸し暑い真昼、ただ冷房の効いた車内に長時間居られるという爽快感くらいの楽しみで、あとは田畑が続くつまらない田舎道を、バスはひたすら東へと向かっているだけであった。

 誰かの音頭で、カラオケをやるぞということになった。
 が、車内の雰囲気はまったく気勢が上がらない。これからかんかん照りの野外に放り出されて、あのこっぱずかしい「蛙」の歌で応援をしなければならないのだから、無理もなかった。
 言い出した本人としぶしぶ2、3人が参加しただけの、ぐだぐだとしたバス内プチ・パーティが始まった。私は睡魔に襲われた。バスの窓ガラスの向こうでは、信号待ちするおばあちゃんが日傘を差して交差点に立っている。それにしても日差しが強く、見ているだけでこちらがクラクラしそうである。

 野球場へと向かう車中、誰もそのプチ・パーティに興味を示していなかった。参加者少数がカラオケに乗りまくっているだけで、他の生徒は完全に白けていた。それもそのはず、ただ怒鳴っているだけの、とても歌とは思えないだみ声のノイズといった調子で、スピーカーからの音声は割れきって聴くに堪えなかったからだ。

 どこまでこのノイズが続くのだろうという苛立ちと、信号待ちするおばあちゃんの切ない表情の残像が心情的に重なり合って、酷く憂鬱な気持ちにさえなった。ともかく今は首を落として眠るしかないと思った。

*

 やがて、深い眠りと浅い眠りとの境目で、周囲の笑い声が聞こえてきた。
 私の意識はぼんやりとしていて、目を閉じたままだった。笑い声はいっそう長く続く。もう少し意識がはっきりとしてくると、それが単なる笑い声ではなく、ある種の熱狂的な瞬間のあるうねり、手を叩く者と声を上げる者との波状があり、次第に私は眠ってもいられない気になってきた。

 一体私の周囲で何が起きているというのか。

 ここではっきりと目を醒まして、その熱狂の源を視覚的に確かめたくなった。それはすぐに分かった。最初こそぐだぐだと歌っていたリーゼントヘアの男が、聴衆の釘付けとなっていたのだ。まるでライヴのオンステージのように。

 そしてその周囲の熱狂は、彼の歌にしびれていたからではなかった。いや、そうとも言い切れないかも知れない。しかしながら、多くの生徒が熱狂の渦中で見つめているその視線の先こそが、重要であった。
 歌い続けている彼がビートに合わせてくねくねと身体をよじり、時折眼を瞑ったりして格好をつけ、ある歌詞に差し掛かると、マイクを握り締めた手が妙な形に変化していた。

 こ、小指を突き立てている!

 彼がマイクを握り締めているその手の小指が、まったくマイクから乖離し、ラジオのアンテナのように垂直に立っているではないか。

 しかも歌の歌詞が「アノコ」だとか「カノジョ」だとか「アイツ」だとか、ともかく二人称に差し掛かると、その小指が瞬く間に垂直に、美しくおっ立つのだ。聴衆はそれを見てゲラゲラゲラと笑っている。笑いながら彼のパフォーマンスに釘付けになっている。遂に彼は、バスの中で、自分の小指一本で、輝くロックスターになってしまったのである。

*

 そうしてバブルが過ぎ去った。90年代が過ぎ、21世紀も10年代となり、今やアベノミクスで沸き立っている。
 私はあの時のちっぽけな光景を、面白がってロックスターを真似たリーゼントヘア男の素っ頓狂な戯れを、単なる学生の余興の一些末として、己のモノクロームの記憶の中に押し込めていたけれど、その忘れかけていた氷の塊が解けだしたのは、つい昨日の嶋大輔引退のニュースを聞いたからだった。
 あの時のくだらない想い出が、くだらないというレッテルを貼られたまま、急激に氷解した。

 ロックスター?

 何か私は不安な気持ちになって、あの小指の記憶をもう一度思い返してみた。そう言えばあのリーゼント男は、一体誰を真似て小指を立てたのだろう。当時、そんなアーティストが本当にいたのだろうか。

 いや、誰かの物真似ではなく、ついつい面白がって小指を立てて歌っただけかも知れない。しかし、それにしても――。

 バブルがはじける前、多くの若者のカリスマだったアーティストをふと思い出した。THE BLUE HEARTSの「チェルノブイリ」の映像を観た。
 ヴォーカルの甲本ヒロトは、小指なんて立てていない。

 じゃあ一体、誰が小指を立てた?

 そうだ。そうだったのだ。
 誰も小指なんて立てていない。プレスリーも、尾藤イサオも、矢沢永吉も、世良公則も、もんたよしのりも、横浜銀蝿も、嶋大輔も、みんな小指なんか立てていないじゃないか。

 私は何を勘違いしていたのだ。リーゼント?ロックンロール?
 そうなのだ。いや、そうじゃなかった。あの小指はロックなんかじゃない。中指を立てることすらできなかったひ弱な男の、他愛もない遠吠えに過ぎなかったのだ。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
§
 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
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演劇『金閣寺』追想

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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
§
 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…