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『洋酒天国』と樽の話

 Barrelすなわち「樽」(たる)について書いてみる。

 その前に少し脱線するが、樽で思い出すのは、タカラトミーの大ヒット玩具、「黒ひげ危機一発」だ。

 これは子供の頃、おもちゃ屋で買ってきてよく遊んだ。単純に思い出すのは、複数人で順番に短剣を樽に刺していって、黒ひげ男が吹っ飛んだ人が負け、という遊び方なのだが、ディテールとしては実はこうなっているらしい。
 ――海賊が何者かによって縄で縛られ、樽の中に捕らえられている。仲間は黒ひげ男を救出しなければならない。そこで短剣を樽に刺していき、縛っている縄を切り、海賊を助け出す――と。

 本来、海賊が吹っ飛べば救出したことになるのだから、ルール上“勝ち”になるのだが、それがいつの間にか、吹っ飛んだら“負け”、というルールになってしまった。面白い。しかしそれにしても「黒ひげ危機一発」はベストセラー商品だ。

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『洋酒天国』第7号
 樽。酒飲みのための小冊子『洋酒天国』第7号で、「西洋合財袋」というコラムがあり、樽について書かれている。筆者は春山行夫(作家・コラムニスト)という人である。

 樽は、日本のと西洋のそれとを比べると、構造的に格段の相違がある。西洋の樽は樽板の上下が“二重アーチ”になっていて、建築構造上堅牢な容器になっているという。この樽板の曲線によって、運搬するにも都合が良く、横にして転がすこともでき、胴の丸みによって樽の向きを簡単に変えることができる。

 歴史上に現れた樽としては、紀元前、ギリシャの哲学者ディオゲネスの樽が有名であるといい、この樽はギリシャ語で粘土製の大きな容器を意味している。したがってそれは大きな粘土の瓶(かめ)であったから、今日の樽の歴史とは無関係である。

コラム「西洋合財袋」
 そのほか、ヘロドトスの『歴史』では、葡萄酒を椰子の木で作られた樽で運搬した記述があるらしく、さらにストラボーの『地理』によれば、ゴール(フランスの古名)で樽の内部に“ピッチ”(瀝青)を塗る技術があったらしい。いずれも紀元前の話であり、春山氏のコラムを掻い摘まんで書いてみた。

 もう少し「樽」について調べてみようと思い、平凡社の『世界大百科事典』(初版)を引っ張り出してきて、調べた。

 日本では古来より円筒形の木製容器として「桶」(おけ)というのがあるが、蓋がないのが桶、あるのが樽、という区別らしい。『延喜式』にも樽の名称が出てきて、それらの呼称の区別がその時代はまだ曖昧だったようだ。『古事記』の“本陀理”の「たり」が「たる」と変じたと、本居宣長の説が示されている。江戸時代になると手樽、柳樽、遍樽、指樽などと種類が多く派生したとも述べられている。

 一方の西洋樽について、『世界大百科事典』の記述をさらに読んだ。

 建築構造上の二重アーチ、ギリシャの哲学者ディオゲネス、ヘロドトスの『歴史』、ストラボンの『地理学』、ピッチ…あれ? なんだか『洋酒天国』で書かれていた内容と瓜二つに思える。何度も読み返してみたが、やはり瓜二つだ。おかしい。まったく違う書物なのに、何故?

 よくよく見てみると、驚いた。『世界大百科事典』の「〔西洋〕樽」についての記述は、同じ春山行夫氏ではないか。びっくり。この偶然には驚く以外にない。
 この事典の初版が出たのは1966年で、『洋酒天国』第7号は昭和31年すなわち1956年。つまり10年前の春山氏の『洋酒天国』の原稿が、ほとんどそっくり『世界大百科事典』で採用されたことになる。そもそも春山氏はタル博士なのだろうか。

 その「西洋合財袋」のコラムの左ページには、どうも開高健氏が書いたと思われる、「六十九番めの樽」というミニコラムがある。これまでの真面目な樽の話とはかなり違う。ウイスキーの“VAT 69”の話。大人の話。
 この手の話が好きな開高氏の原稿は、『世界大百科事典』ではどこにも見当たらない。当たり前である。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
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 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
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演劇『金閣寺』追想

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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…