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写真集『文字の母たち』のこと

港千尋著写真集『文字の母たち』
 読書を愛好する我らにとって、「印刷」と「文字」は重要なファクターであるが、当ブログでも本の「印刷」について、その個人的な“紙fetishism”に属する話をいくつか残しているので、興味のある方は“印刷”と検索していただければ幸いである。ただし、「文字」についてはだいぶ書き損じていたので、この稿で改めて触れておくことにする。
 そう、これは以前より触れておきたいと思っていたのに、そのことをすっかり忘れていたのだ。4年前に見た、ある写真集と共に――。

 私と「文字」との関係をピックアップするならば、《歌》について触れなければならない。

 音楽における《歌》すなわちヴォーカルを録音する、という行為を、中学時代からやり始めていた私にとって、ささやかな、あるいはもっと重大な事柄として、それを認識していた。
 つまり、歌詞を読んで(文字を拾って)歌う際のこと。その「文字」の形や状態によって、非常に煩わしく思えたり、逆に心地良くなってのびのびと歌えるようになったりと、録音に著しく影響を及ぼす視覚的要素となっていた。

 譜面は歌詞を追うのに不適当であるから、ヴォーカルを録るためには、まず歌詞カードを作成する必要があった。当初は手書きで済ませていたが、あまりにも字が汚いので、ワープロで歌詞を打って印刷し、それを作成した。

 単に文字を並べただけでも良かったのだが、そのうちだんだん歌詞カードの作成のコツが分かってきた。平歌とサビをしっかり分けて目視できるように、行間を工夫したり、文字を大きくしたり、マークを付けたりして、一瞬で文字を拾い上げて歌唱できるようにした。これがうまくいかないと、歌唱は途中で座礁してしまい、そのテイクはNGとなってしまう。

ド・ギーニュ編纂『漢字西訳』の写真
 重要だったのは、事前にその曲の歌詞の意味を理解しつつも、ほとんど歌詞を暗記してしまうこと。しかし、単に文字を拾って歌唱するにとどまらない次元の話になってくる。この準備的段階で面白いことに気づいた。
 それは、文字のフォントを変えることによって、なんとなく歌詞の意味合いの把握に微妙な影響が生じるということだ。フォントをゴシック体にするか明朝体にするかで、文字が生き物のように感じられ、言葉から伝わってくるものが違うのである。これは普段、同じ著書を出版の違う本で読み比べた時にも生じる、活字からほとばしる微妙な違い、に対する感覚だ。

*

 個人的なこうした事柄について、ある写真集が教養として役に立った。港千尋著『文字の母たち』(インスクリプト社)である。写真集の内容については、帯紙の文章が秀逸なので、敢えて引用してみる。

《世界でもっとも古い印刷のひとつ、パリ・フランス国立印刷所、秀英体活字を伝える東京・大日本印刷――いまや絶えようとする活版金属活字の最後の姿をとらえ、文字の伝播の歴史を繙く写真集》
《…グーテンベルク以降の西欧の活字活版印刷技術を伝承するフランス国立印刷所は、その後の書体の発展に大きな影響を与え、日本における明朝体金属活字の精華・秀英体にも、遠くその記憶が谺している。パリと東京で撮影を重ね、ユーラシア大陸をまたぐ文明の交流と接点を凝縮する活字の記憶を遡った壮大なフィールドワーク》
(港千尋著『文字の母たち』帯より引用)

 ガラモン(ガラモンド、ギャラモン)フォントはどっしりと落ち着いた風格があり、言葉の奥底に秘められた何かさえも感じられ、威厳がある。このフォントは現在、多数に枝分かれしているらしい。秀英体は、私もよく使っているフォントの一つなのだが、毛筆の流動的な曲線を仮名文字に残し、漢字の格調高い象徴性を活かした素晴らしい書体。この秀英体を使って歌詞カードを作成すると、言葉の意味合いが二重三重にもふくよかになり、歌唱する際の感覚に多様な甘美を付与してくれるのだ。

 現代のデジタルフォントはその役割として枚挙に暇がない。写真集『文字の母たち』は、ガラモンと秀英体書体の「母型」の歴史を、まさにその艶やかな書体を通じて伝える画期的かつ貴重な解説本である。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…