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津軽三味線

 私の小学生時代、午前で下校になる土曜日の昼食は、母親の作ったチャーハン、そして日曜の朝食は町の人気パン屋で買ってきたコロッケパンを食べる、というのが毎週の定番のようになっていた。
 その土曜、チャーハンを食いながらNHKの邦楽中継などをBGM代わりにして聴いていたことを思い出す。考えてみればあの頃は、土曜日に限らず、けっこう頻繁に長唄だの浪曲だの、テレビやラジオでやっていた。
 そうした子供の頃のささやかな音楽体験というのは馬鹿にできないもので、思いがけず、奥底の記憶に邦楽の蓄積がじわりと印画されていたりする。つい先日、初代高橋竹山のレコードを聴いた時、急にチャーハンが食べたくなったのだから、記憶は脳内の気づかないところでひっそりと連関しているのである。

 昨年のことながら、岩波書店のPR誌『図書』11月号で佐々木幹郎著「津軽三味線の彼方へ」というエッセイを読んだ。端的に言えば、これを読んで高橋竹山が聴きたくなったのだった。

 著者は陸奥湾に面した夏泊半島を旅する。小湊にある「平内町歴史民俗資料館・初代高橋竹山資料展示室」を訪ねたり、音楽プロデューサー・佐藤貞樹の晩年の家で竹山に聴かせるための膨大な音楽レコードを見たり、日高見荘で佐藤夫人の陽子さんと対面したり。竹山の音楽を紡いできた佐藤貞樹氏の功績に触れると共に、東日本大震災への様々な思念について、その稿では述べられていた。

LPレコード『津軽三味線 高橋竹山』(CBS・ソニー)
 私の持っているレコードは、『津軽三味線 高橋竹山』(CBS・ソニー SODL-17)で、1973年12月11日と12日の渋谷ジァンジァンで行われた独演をライヴ収録したものである。ちなみに、ネットで調べてみると、このレコードの帯には、通常生産の帯とは少し違う趣の帯があったことが分かった。

 当時、SONYが開発した「SLHテープ」を使用したことを示唆する帯で、超低ノイズ、周波数特性の改良、高出力、そして音飛びのしない走行性能に優れた、画期的なバックコーティング処理を施したテープだったらしい。レコードには録音に関する技術的な記載がないので詳しい内容は分からないが、あのざわざわと波打つ臨場感ある初代高橋竹山の三味線の音は、こうした録音技術で実現したのかと感心させられた。

 レコードのライナー・ノーツには、佐藤貞樹氏の解説が書かれている。これを読んで演奏を聴けば、ぐっと竹山の三味線の音が燃える炎のように感じられてくる。「三味線じょんがら」は門付け芸の変遷上三節あって、レコードでは旧節、中節、新節と収録されている。大正13年頃の旧節、昭和10年頃までの中節、昭和20年頃に変わった新節。新しくなりにつれ、津軽三味線の転回形とも言うべき西洋音楽的なリズムに近い形となっている。

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 ところで佐々木氏は、その稿の中で詩人ノヴァーリスの詩を道標として、見えないものや聞こえないもの、感じられないものに信を置き、考えられないものから考えるということを注視していた。そもそもノヴァーリスを引き合いにしたのは佐藤貞樹氏で、彼は初代高橋竹山の三味線をそういうふうにとらえていたのだという。

 レコード『津軽三味線 高橋竹山』では、ちょっとした竹山本人の「語り」が入る。その語り口調の面白さのせいか、観衆の大きな笑い声がたびたび挟まってくる。それはあの70年代の、津軽三味線ブームと言うべきものか、その火付け役となった渋谷ジァンジァンに来た若者達の、東北・津軽に対する物見的な斬新さが加味しての、大きな笑い声となっていることを、私は思う。しかしそれにしても、このジャケットには迫力がありすぎる。レコード史上、最も凄みのあるジャケットではないか。

 こうして初代高橋竹山のレコードを聴く以外に、とんと邦楽を耳にする機会がない。チャーハンを食いながら三味線だの箏曲だのが自然に耳に入ってきた小学生時代というのは、まったく化け物のような時代を過ごしてきた、と言えるのではないだろうか。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
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 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
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演劇『金閣寺』追想

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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…