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再び『愛蘭土紀行』

 幼少の頃よく聴いていたクラシック・レコードのジャケットやら解説のたぐいの写真などで、ロンドンを行進する軍楽隊の、その赤色と黒色の調和の取れた服装であるとか、別の写真におけるパリかどこかの街の、とある市民がフランスパンをハトロンの紙袋に包んで歩いている様を見たりして、私はその頃、一様にそれを“英国”の写真と受け止めていた節があった。

 この場合の“英国”のイメージは、“外国”という意味と同等で、古い建物を背景に、背の高い、蒼い眼をした金髪の男女が風流に佇んでいる写真を見れば、すべて“英国”だったのである。尤も、実際に“エイコク”という言葉を知ったのは、もっと後のことであるが。

 確かに、クラシックの作曲家にフランス人が多い(古いレコード・ジャケットの風景写真が圧倒的にフランスの地であった)ことと、そのロンドンの軍楽隊写真のあまりの印象の強さに、十把一絡げにこれらを英国すなわちUnited Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)の写真であると幼稚に認識してしまったことは、自ら苦笑せざるを得ない些末である。
 しかしながら、20代の頃に読んだ司馬遼太郎著[街道をゆく]シリーズ30・31『愛蘭土紀行』(Ⅰ~Ⅱ・朝日出版)で英国的文化の概略を認知するまで、私の中の英国像というものは、さほど幼少の頃と変わりない、きわめて陳腐なものであった。

司馬遼太郎著[街道をゆく]『愛蘭土紀行Ⅱ』
 この文庫本2冊にわたる司馬遼太郎氏の長い叙述の感想を、ここで書く気はさらさらないのだが、音楽にまつわるということで、「甘い憂鬱」の稿が私にとってそれの一助となったことを書いておきたい。

 ――その日の夜、司馬さんの一行はケンメアのパブに寄った。司馬さんがミンストレル、と期待して遭遇したのは、バグパイプ名人の客だ。

 ここで司馬さんは話を折られて、大正14年刊の菊池寛、山本修二著『英国・愛蘭 近代劇精髄』(新潮社)の本の話を進める。私もついでに、この本を確認するため、インターネットで近代デジタルライブラリーを閲覧した。

 司馬さんはこの本の文中から繙いて、ケルト民族の特性を《“放浪”癖と“悒愁”》の両面でとらえられているとしたが、文中では“放浪慾”(ワンデル・ルスト)となっていた。文中の言葉を借りれば、亡国の民、流謫の国という民族意識の深層から郷愁を促され、放浪欲が起こる、ということであろうか。さらに司馬さんはエルネスト・ルナンの言葉を引き出して、《この国の楽の音の甘い悒鬱といふものは、ちよつと他国に見出されない》と表している。

 この後、パブの話に戻って、バグパイプ名人が登場する。司馬さんはバグパイプのドローン・パイプに対して、《にぶい単調な音を出しつづけるだけの笛で、このdroneという名がいい》と述べている。私もそう思う。

*

 私は『愛蘭土紀行Ⅱ』の「甘い憂鬱」の稿を読むと、いつもポール・マッカートニーの「Pipes Of Peace」が頭の中で鳴り響く。この曲は実に奥が深く、マッカートニーの隠れた名曲であると信じているのだが、この曲についてはここではとりあえず割愛する。
 司馬さんはバグパイプの話から日本の明治期の小学唱歌の話へと転じ、「庭の千草」の曲を持ち出す。この曲のもともとはアイルランドの民謡「The Last Rose of Summer」で、里見義が日本語詞を付けて「庭の千草」とした。

 私が思うに、明治初期に文部省音楽取調掛の御用掛となった伊沢修二の働きは、戦後昭和期以降に至るまで、影響が大きかったと言っていい。
 彼がアメリカ留学した際に出逢った音楽教育家メーソンという人を日本に招聘し、スコットランドやアイルランドの民謡を選曲してそれに日本語詞を付け加えるという作業が行われたわけだが、先に述べたいわゆるケルト民族の《郷愁》と《甘い憂鬱》という特性がその音楽の中に溶け込んでいなければ、日本の風土とも合致せず、日本の唱歌や童謡の作品はこれほど豊かにならなかったのではないか。それは、伊沢修二の音楽観、思想、東洋的な花鳥風月の観念が多分に加味されたものであり、鋭い感覚で原曲の民謡を選んでいったのではないかと思われる。

 司馬さんは、自ら“音楽をふくめた音響がにが手”としているその分野に対しても、BEATLESやバグパイプ、日本唱歌の話に及ぶまで書き進めたのは、ケルトと日本人の共通項的なものをそこから見出したからに他ならない。
 私は、『愛蘭土紀行Ⅱ』の「甘い憂鬱」を20代で読んだ時には思いもかけなかったが、BEATLESと同様、日本の唱歌はクラシックではなく、世界に通ずるポピュラー音楽の源流なのだということを知った。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
§
 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
 物語(あるいは世界観のようなもの)を大雑把にゆるく説明すると、こういうことになる。ここは広大な砂漠。そこには、国と国を分け隔てる「壁」があり、その「壁」と「壁」との間にある砂漠が、“私たちの国”。果たしてこの「壁」は、いったいいつできたというのだろう。仮国境の外にある“向こう側”、“あっち側”との軋轢によってテロ事件が巻き起こり、「わた…

演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…