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ヘチマコロンから思い出すこと

 何がきっかけだったかはっきりとは憶えていない。ヘチマコロンを愛用し続けてかれこれ10年以上経つ。無農薬・有機肥料で栽培されたヘチマのヘチマ水。冬場の乾燥肌にも効果的で、安心して使い続けている。使っているのは60mLタイプの化粧水と乳液で、サイズが小さいから旅行にも持参でき、とても便利だ。今日はどちらを使うか、気分によって化粧水か乳液かを決めることが多い。

《日本の植物派化粧品 ヘチマコロン》

 ヘチマコロンの歴史は古く、その歴史は大正時代にまで遡る。ロゴマークがとても美しく、深緑色に統一されたカラーとデザインは大正・昭和初期の「モガ」を連想させ、何と言っても竹久夢二が描く婦人画が、それぞれのボトルのシンボルとなっている。

 いつも私はヘチマコロンを通販で購入する。年末頃に注文すると、竹久夢二の画のミニ・カレンダーが封入されて届くので、今まさに手元にあるそのカレンダーを見ながら、これを書き綴る。
 婦人画に魅せられて少しばかり気分が昂揚する。つい先日、新たに乳液の瓶を買い求めたのだが、その時一緒に折り込まれていたパンフレットを、つい凝視してしばし眺めてしまったりする。

竹久夢二イラストの新聞広告(1930年)
 1930年の竹久夢二イラストの新聞広告。

 《優良国産品 ヘチマコロン へちまの水から発明した化粧水》。その右側には「ヘチマコロンの唄」とやらが記してあって、その下はなんと裸体画である。
 この前、読み終えたばかりの漱石『草枕』の、湯船の場面を想起させるような婦人の裸体画――。例えば、漱石とも馴染みの深い装幀作家・橋口五葉の「浴後の女」(木版)はどちらかというとリアリズムが漂う。が、夢二のこの裸体画は、粗野で美人画と言うほどではない。しかしながらとてもさっぱりとした、広告ならではの素描さが際立っており、決してエロチシズムがないわけではない。

*

 そんなことを考えながら、化粧水をパシャリ顔に付けてみる。不思議と爽快な気分になって、心持ち毅然としてしまう。

 何故私はヘチマコロンを愛用しているのだろうという、きっかけを、やはり思い出そうと努力するのだが、どうもそれは個人的なちっぽけな影響らしいことが分かった。
 竹久夢二を描いた映画『夢二』(1991年作品)の監督・鈴木清順先生が、私の母校の専門学校で在学中、講師(映画芸術科)をしていた。課程が違うので直接聴講を受けたことはない。ところが、ある日その校舎の職員室(芸術課程教務課)で一度、清順監督にお会いしたことがあった。煙草を吸っていたか、お茶を飲んでいたか。

 『夢二』公開直後のことであったから、竹久夢二と清順監督の存在が私の頭の中ですっかり渾然一体となった。
 尤も子供の頃、テレビで『陽炎座』を観たことがあったのだが、こちらはあまりにも大人風俗の、子供には分かりかねる刺激的な映像だったので、すぐにチャンネルを替えた。そういう映画を作っている映画人、という印象が強かった。清順監督に対する私の個人的なイメージは、なんとなく夢二と同化するものがあったし、学生時代における清順監督への敬意の眼差しが、夢二とヘチマコロンとを一本の線で自然に結びつけた、と考えた方がしっくりくる。当然、愛着がヘチマコロンにも湧く。きっかけは、そんなようなことである。

 竹久夢二の詩の作品で「宵待草」というのがある。1917年に多忠亮が作曲をして、流行歌となった。最近私はこの曲を歌いたいと思うようになった。
 夢二のイラストも存分に眺めてみたい、学生時代には生半可な鑑賞でしかなかった清順監督のあの“大正浪漫三部作”をもう一度じっくり味わってみたい…。ヘチマコロンが一つの大きなヒントを与えてくれているような気がする。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
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 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
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演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
§
 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…