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美しき色彩―沖縄切手

琉球郵便切手「民族舞踊シリーズ」
 切手を集めていた頃が懐かしい。
 小学4年生の頃は学校の“切手クラブ”に所属し、持っている切手を自画自賛したり、顧問の先生が教えてくれたいろいろな切手の話題に触れたり、実物を見て楽しむことができた。個人的には通販のコレクターズ・クラブの会員にもなって、興味のある切手を毎月、400円くらいで入手して、コレクションを増やしたりしていた。仲間内では、不定期に集会を開き、“競り”で各々の切手を交換したりもした。

 最近、テレビで知ったのだが、中国の切手の価値が、その売買市場でずんずん高騰しているらしい。例えば「赤猿」の切手が10万とか、文化大革命時代の切手が20万、30万だとか、高いものだと100万を超える切手もあるという。

 毛沢東の切手なら――持っている!と思った私は、その小学生時代の、古いコレクション・ファイルを覗いてみた。
 毛沢東の切手は、15万とか30万とか。これはいい小遣いになる、とわくわくした気分でファイルの中を探してみたのだが、見つからない。確かに昔、毛沢東の顔の切手を持っていた記憶があるのだが、隅から隅まで時間をかけて見渡しても、やはりどこにも見つからない。はて。

 この謎を推理した。
 かつて仲間内で競りをした際に、こんなおじさんの顔の切手なんかいらないと、交換してしまったのではないか。小学生に毛沢東など分かるわけがない。当時、珍しかった金箔の切手も所有していたのだが、それも今はファイルの中に無く、おそらく競りの恰好のアイテムとなってしまったのだろう。毛沢東も今やアイドル並みのスター。30万の値打ちがあるとは。文化大革命、恐るべし。と、つい悔しまぎれの冗談が言いたくなってしまう。

*

 そう言えば先月の5月、“愛鳥週間”というのがあった。鳥を愛でる週間である。それがきっかけで私は初めて、1963年の「サシバの群れ」と1966年の「リュウキュウツバメ」という琉球郵政発行の愛鳥週間の記念切手を知り、その美しさに目を奪われた。どちらも3セント切手だ。

 もともと単純に、私は切手の色彩や図柄そのものに興味を抱く。実際どんな価値が潜んでいるか、といった曰く付きの切手やミスプリントの希少価値を有する切手は多々あるにせよ、そういうもので切手を集めたりはしなかった。

 やはり子供の頃は、ディズニーの切手やアフリカの野生動物、魚類、あるいはオリンピックの記念切手、外国の切手に関心があって集めていた。ファイルの中もそういう図柄が、やたら多い。

 美しい切手を所有したくなる気持ち、あるいはその欲望はなかなか衰えるものではなかった。先月、その琉球郵政(沖縄切手)に関連して、舞踊モノを入手した。全部で9種あるのだが、実に美しい図柄である。この一目で分かる美しさに、切手というものの最大の価値を見いだしたいと願う。

 入手するのが先走り、内容を調べるのが後追いになってしまった。沖縄の舞踊の切手は、各時代に何度か発行されたらしい。古いのは1956年の二色刷の「民族舞踊シリーズ3種」で、比較的新しいのは1990年の「琉球舞踊」がある。ただしこちらは日本郵便である。

 私が入手した舞踊切手は、1960年以降に“琉球郵便”で発行された「民族舞踊シリーズ」で9種揃である(画像最上段が「むんじゅる」、2段目左から「諸屯」「御前風節」「花風」「伊野波節」、最下段左から「伊野波節」「しのび」「鳩間節」「上り口説」)。

 沖縄の舞踊には三弦に伴って3つに分類されるという。歌劇である組踊、中国・日本の宮廷文化に連なる歌舞伎風舞踊(「花風」や「上り口節」)、沖縄特有の郷土舞踊(「鳩間節」)。これら舞踊については『世界大百科事典』(1965年初版・平凡社)が詳しかったのだが、残念ながら長くなるので紹介できない。
 この事典の“沖縄”の項は、非常に事細かく多くの紙面を割いている。敢えてここで、この時代の沖縄を示すために、概略部分の数行を一点だけ引用しておく。無論それは過去形ではない、現在進行形の現実を指していた。

《面積2,388k㎡、人口883,122(1960調)、人口密度369人/k㎡、琉球政府所在地は那覇(なは)市。第二次世界大戦後アメリカ軍政府監督のもとに琉球政府を樹立し、旧沖縄県の範囲を統治している》
(『世界大百科事典』1965年初版・平凡社より引用)

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
§
 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
 物語(あるいは世界観のようなもの)を大雑把にゆるく説明すると、こういうことになる。ここは広大な砂漠。そこには、国と国を分け隔てる「壁」があり、その「壁」と「壁」との間にある砂漠が、“私たちの国”。果たしてこの「壁」は、いったいいつできたというのだろう。仮国境の外にある“向こう側”、“あっち側”との軋轢によってテロ事件が巻き起こり、「わた…

演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
《神奈川県横浜市の中心的商店街で中区にある。東京の銀座、大阪の心斎橋筋などとならび称せられる繁華街。第二次世界大戦後は焼け残ったおもなビルや周辺一帯が広く米軍用地に接収されて復興が著しく遅れたが、現在では活況をとりもどし、各種デパート、商店、映画館がたち並んでいる。この一帯は江戸時代前期、1659年(万治2)の干拓による吉田新田にあたっているが、開港後港を中心とした関内(かんない)すなわち外人向け商店街として開かれ、明治初年に共同して開発にあたった伊勢屋と佐々木氏の屋号をとって、町名にしたという》 (『世界大百科事典』平凡社・1964年初版より引用)
 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…