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音楽の教科書―歌と音の悦楽

「改訂 小学音楽5」(教育出版)
 学校時代の教科書の話。
今年の1月、母校の中学校で扱われていたと思われる音楽の教科書を入手することができ、ほとんど忘れていた中学での音楽授業を、しばし思い出すことができた。これについては、当ブログ「私たちのレコード・コンサート」で書いた。

 自らがかつて体験した学校授業の、その時扱われていた教科書を、いま再び手にすることは物理的にかなり困難なことである。たとえインターネットを駆使したとしても。しかし時折、偶然とは恐ろしいもので、そうした困難をいとも簡単にすくい取って、目の前にそれを提示して見せてくれる運命の悪戯というものがある。

 またしても――音楽の教科書を入手した。今度は小学校版である。
 「改訂 小学音楽5」(教育出版)。
 入手したこの教科書の本体は、昭和59年1月発行となっているが、昭和54年3月に文部省検定済、昭和57年3月に改訂検定済となっており、私が小学5年生であった昭和58年(1983年)でも、内容的にこれとほぼ同じである教科書が用いられて授業が行われた。何より、表紙イラストに見覚えがある。中身の楽曲や写真等を見ても、眠っていた記憶が一瞬にして呼び覚まされたほどはっきりと憶えていて、母校の小学校で扱っていたのがこの教科書であることは間違いない。

「ピーターと狼」のレコード鑑賞
 当ブログ「ピーターと狼」で、小学4年の担任のK先生が「ピーターと狼」のレコードを聴かせてくれたのではないか、と推理したことがある。けれどそれは、私の憶測に過ぎなかった。実際は違っていたのだ。何故なら、この「改訂 小学音楽5」でプロコフィエフの「ピーターとおおかみ」のレコード鑑賞が促されていたからだ。

 ちなみに、これまで私は、小学校で最初に管弦楽のレコードを聴かされたのが「ピーターと狼」ではなかったかと思っていたのだが、その可能性はかなり低いことがこれで分かった。小学4年でも別の何か管弦楽をやったはずである。とは言え、むしろ楽曲としては、ドヴォルザークの「新世界」のような荘厳な曲の方が印象深く、「ピーターと狼」に関しては中身の印象が私の中では薄かった。しかし、この教科書の中の、その動物たちを描いたユニークなイラストの方が思い出として熟してしまっている。

 そう言えば、この「ピーターと狼」のレコードを聴かせてくれた音楽の先生を思い出した。かなり年配の女先生、A先生であった。当時、小学校では担任の先生がすべての授業をこなしたものだが、体育の得意な男先生の担任は音楽が不得手とあって、音楽と家庭科だけは別の先生であった。

*

 「改訂 小学音楽5」における冒頭の楽曲は、片岡輝作詞、Barry Brian McguireとRandy Sparks作曲の「グリーングリーン」(原曲「Green,Green」)。その次のページが「オカリナのおか」(「オカリナの丘」保富庚午作詞、いずみ・たく作曲)。この春先に習ったはずの2曲が、小学5年時の音楽授業の、最も印象に残っている楽曲であり、シンボリックな旗印である。

 ところで、教科書の目次欄には、学習の“めあて”を示す下記のような項目が中央に記してあった。

①楽ふを読んで ②リズムにのって ③気持ちをこめて ④美しい声・美しい発音 ⑤音の重なり・ひびき合い ⑥季節の歌・行事の歌 ⑦ようすを思いうかべて ⑧えんそうの形・音のひびき ⑨わらべ歌・みんよう

 これら9つに分類されためあて項目が、各楽曲に割り振られて示されているのだが、音楽実演において、音楽理論と鍛錬の面で最も重要な②が、全体で6曲に割り振られているのに対し、⑤が9曲と多く、やや不均衡に感じられた。
 ③は5曲、④は4曲しかない。
 ②~④のような実践的な項目よりも、⑤の音の重なり・ひびき合い、といった鑑賞主義に傾斜した指導がなされていたのではないかと推測される。

 「日本の音楽(子もり歌・民よう)」のページには、日本列島の地図にそれぞれの地方の民謡を分布して示してあって分かり易い。が、むしろ祭りの甚句や盆踊りを多く示した方が、子供らにその音楽を実地体験できる機会を与えられただろう。子守歌を教えるより、祭りに参加して音楽を体感せよ、というのが私の主観だ。
 ともかく、昭和50年代後半という時代の、高度成長期はとうに過ぎ去っていながらもまだなんとなく安泰、安穏としていた雰囲気が教科書の中身からも感じられ、なかなか面白い。そしてしばし、音楽教育の難しさを感じ取ることができる。

 それにしても、“めあて”というこの語句は、個人的には懐かしい響きだ。
 “めあて”とは、目標や基準の意だが、小学校ではこの語句の他に、“きまり”とか“ねらい”、“しらべ”“くふう”といったようなかみ砕いたひらがな表記が、子供でも分かるように学習用語として頻繁に活用されていた。
 各学期が始まると、こんなことをした。
 厚めの色画用紙を短冊くらいの大きさに切って、「1学期のめあて」と記し、そこに個人個人が学習目標や生活態度の目標などを書いて、教室の後ろに高く貼り付けられた。
 私などは、書く内容に苦心してなかなか決まらないので、他人のをこっそり真似したり、いいかげんな(本気で思ったりもしていない)ことを書いて提出するといったような児童であった。そういう時、ああいうひらがな表記を見ると、気が滅入って仕方がなかった。

 話を教科書に戻す。
 こうして昔の音楽教科書を振り返ってみると、感興を揺さぶられる楽曲が多く詰まっていたことに気づく。そういう意味では品性を感じる豊かな時代であった。
 それらの思い出とともに、できればもう一度、あの頃の音楽授業を受けてみたい。そういう気分に駆られる。教科書を、ただ読み物として手に取るのではなく、あくまで実践してこそ意義があるのではないか。四十の手習いで再び笛を吹いたり鍵盤ハーモニカを吹いてみたりするのも、いいと思う。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
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