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バルテュス展―無垢なる目撃

 日頃、《音楽を演奏する》という一括りのありきたりな言葉に囚われすぎると、その本質を見失うことがある。
 そもそも《音楽》を《演奏する》とは何であろうか。
 ある空間における時間軸に沿った出音の集合体――その密と疎の波動が三次元で人間の聴覚に到達する、という物理的感覚的概念。この概念に則って、多様な音へのアプローチが試みられる。

 そうして楽器を奏でたり、様々な音楽を聴く際に、いずれも表現性(批評性)の奥行きの問題が生じる。場合によっては何らかの理由によって、表現性が欠乏してしまうことがある。
 欠乏した音楽的表現性のビタミン補給には、いくつかの処方がある。私の場合、酒やコーヒーを口にして心を落ち着かせ、その味を堪能する。その味わいのほのかな発露が、音の樹液となる。
 あるいは本を読んだり、写真を撮ったり、絵画を観たりする。そうした後の出音の起伏が豊かになり、表現が拡張されたりする。特に、絵画を観た時の自己の反応は、例外なく頗る上機嫌になる。それがいかなる絵画であったとしても。

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東京都美術館で開催された『バルテュス展』
 さて先週、上野の東京都美術館にて、『バルテュス展』を観た。会期はとうに始まっていたのだが、美術館に想像を絶する観客が押し寄せるであろうことを鑑みて、この6月の会期終了間際に訪れてみた。この作戦はなんとか功を奏した。

 ここで余談を書いておく。
 館内のチケット売り場で当日券を買おうと、財布を広げて並んでいると、そこに年配の男性が近づいてきた。その紳士は私に、無言のまま、封筒の中から招待券を取り出して、それを私に差し出した。差し出された券を無意識に受け取ってしまった私は一体何のことか分からず、しばし呆然としていたのだが、それが紳士の、(突然の)厚意であることに気がついた。私は財布から紙幣を取り出して紳士に渡そうとしたのだが、紳士はそれを頑なに拒んだ。ともかく礼を言うと紳士は去っていった。なんとも不思議な十数秒であった。言わば、英国的な香りの立つ紳士の鄭重さと温かさに触れたひとときでもあった。無論、私はそのぬくもりのあるチケットで中へ入った。

 《絵画の鑑賞》ということに関して、私は妙なこだわりがある。ある意味、ひねくれたこだわりと言える。画を描くことが子供の頃から苦手だったせいもあって、自然に画と向き合うことができない。どこかでかまえてしまう。
 したがって鑑賞者である自分の、稚拙な知識と感性の荒野とを照らし合わせて、自分とはなんの関係もない、なんの脈略もない作家のそれを、自然な振る舞いで観ることができないのだ。
 何か一つ、それらが照合した時だけ、私は足を運ぶ。ただし、できるだけ雑念のない透明な心持ちで鑑賞の場に臨みたい。有名無名の作家にかかわらず、敢えてその作品をまったくの予備知識なしで鑑賞することは、幾分の危うさを孕んではいるものの、こういった時の刺激と緊張というのは、とても忘れがたいものとなる。少なくとも私はそういう機会を得たいと願う。

 芸術的な刺激を得るため、一心不乱の「無垢なる目撃」者でありたい。しかし実際のところ、この願いはなかなかうまくいかない。

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 『バルテュス展』。20世紀巨匠の絵画展である。私はバルテュスに対してほとんど予備知識のない、「無垢なる目撃」者だ、と思い込んで挑んだ。が、やはりそこにはいろいろな雑念が入り込んでくる。

 とは言え、雑念も無駄な、無益なものばかりではない。
 バルテュスが幼い頃に感受したとされる、東洋美術や文学への嗜好は、その極東に位置する我々日本人鑑賞者の感性には受動しやすく、バルテュス絵画を嗜む大きな一助となる。この点で言えば、日本人がその東洋美術や文学を受け入れる情意をアイデンティティとしてしまっている以上、既に「無垢なる目撃」者であれるわけがない。とりわけ、日本の岡倉天心、喜多川歌麿、葛飾北斎、白隠慧鶴などを好んだバルテュスの芸術的感性は、日本人の文化の自我的橋頭堡とほぼ同定ではなかろうか。

広告となったバルテュスの「夢見るテレーズ」
 もはや私は、バルテュスの絵画を、「無垢なる目撃」のまなざしで見ることはできなくなった。これまで知識として経験したあらゆる偶然の連関でありつつも、バルテュスの周縁に散らばった数々の表象や相関は、それを肯定してしまっている。そう、天心の『茶の本』しかり、カミュしかり、ベンヤミンしかり。

 20代の頃。とある本――芸術における《性表現》の考古学を主題にした書物――を眺めていると、ジョージ・プラット・リンスの「少女」であるとか、トワイヤンの「休息」、サリー・マンの「Shiva」などに挿まれて、バルテュスの「部屋」(1952-54年・油彩)が解説されてあった。これが私にとって唯一、真実と言えそうな「無垢なる目撃」の、バルテュスとの最初の出合いである。

 バルテュスの「部屋」。
 …暗室の中央に大きめの椅子があり、そこに裸の少女が眠っているのか死んでいるのか、不気味な状態で横たわっている。もう一人、邪心に満ちた小人の女がカーテンを開け、窓から光が差し込み、暗がりであったはずの少女の下半身を、あからさまにさせている。さらに背後の机上には猫が座っており、この両者の様子を第三の眼として達観している…。

 私のその20代の「目撃」は、バルテュスの鮮烈なる印画と言えるほど明白なものではなかった。ただし、特別展広告コピーの《賞賛と誤解だらけの、20世紀最後の巨匠。》をまさに暗示させた禍々しい記憶ではあった。
 バルテュスの絵画から想起されるものは、枚挙に暇がない。これを私は拠り所として、音楽作品を形にしていく態度の、そして表現の奥行きを広げるための導火線としたい。バルテュスへの「目撃」は――ずっと続く。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
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 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
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演劇『金閣寺』追想

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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
§
 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…