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冬景色へのイントロダクション

音楽教科書の中の「冬景色」
 小学校時代の音楽授業については、当ブログ「音楽の教科書―歌と音の悦楽」で初夏に書いておいた。
 私が小学5年生であった昭和58年当時、使用された教科書(と同等の改訂版)「改訂 小学音楽5」(教育出版)の中に、いわゆる“文部省唱歌”とされた「冬景色」という歌がある。私は今でもこの歌を口ずさみ、文字通り日本の“冬景色”と、自分の小学校時代の両側を想い出すことがある。とても美しい歌だ。

 その「音楽の教科書―歌と音の悦楽」で〈四十の手習いで再び笛を吹いたり鍵盤ハーモニカを吹いてみたりするのも、いいと思う〉と書いたのは、実は「冬景色」のことを指していた。ちょうど教科書には、それに見合ったメロディ譜が記されており、おそらく授業でもリコーダーと鍵盤ハーモニカの合奏及び独唱をやったのではないか。私はこの「冬景色」の歌が好きで、自宅に帰って、パソコンPC-6001にプログラムを打ち込み、自動演奏を楽しんだ(ホームページのコラム「PC-6001とがっこうのうたの話」参照)。

 無論、大人びたアレンジでこの曲を歌うのもいいが、当時の教科書通りの、子供じみたありのままの合奏を“再演”してみたいという欲求も、強くある。

 つい先日、夏目漱石の長編小説『行人』を読み終えて、ふと振り返れば奇遇に思われた。『行人』が朝日新聞に連載された大正2年というのは、「冬景色」が掲載された『尋常小学唱歌(五)』の発刊と同じ年(大正2年5月)だからだ。『行人』の「帰ってから」の章の書き終わり、

《永いようで短い冬は、事の起りそうで事の起らない自分の前に、時雨、霜解、空っ風……と規定の日程を平凡に繰り返して、斯様に去ったのである》
(夏目漱石『行人』新潮文庫より引用)

 そしてその次の章「塵労」の書き出し、

《陰刻な冬が彼岸の風に吹き払われた時自分は寒い窖から顔を出した人のように明るい世界を眺めた》
(夏目漱石『行人』新潮文庫より引用)

 という部分を、まったく独断の深読みをするならば、まさに「冬景色」で歌われた規定的な風景を垣間見る気がしたのだ。

 文部省唱歌「冬景色」の作詞と作曲者は、どちらも不明であるという。この謎が解明される日はいつか来るであろうと思う。「冬景色」の厳格で格調高い《冬》の詞の世界と流暢な旋律構成されている曲調の美しさは、誰が作者であろうとも不変な神秘性を保ち続ける。
 「冬景色」の詞は、小学生だった私にとって、ひどく難しく、打ち解けづらく、その読解がどうしても疎かになりながら、全体の雰囲気を漠然と汲み取っていたと思われる。言わば私は、いつでもこの「冬景色」の世界観にうずもれることができた。

*

掲載されなかった3番の歌詞
 当時の教科書には、3番の歌詞が、ない。このことは今にして思えば、曲を理解する上で不誠実な、釈然としない短縮であり、些か作者に対して申し訳ないような気がした。つまりその第3の歌詞こそが、「冬景色」の物語の核心を示しているからだ。

 3番の歌詞を私は、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)で知った。

《嵐吹きて雲は落ち、時雨降りて日は暮れぬ。若し燈火の漏れ来ずば、それと分かじ、野辺の里。》
(文部省唱歌「冬景色」より引用)

 感情や心情を表現した言葉はなく、淡々と目視した景色を並べている。朝と昼と夜の光景を、単純に1日の景色と受け取るか、あるいはそれをそれぞれ別の時間軸として分けて受け取るべきか、解釈の隙間がある。
 竹内貴久雄著『唱歌・童謡100の真実』(ヤマハミュージックメディア)を読むと、この不明である作詞者は、武島羽衣ではないかと述べているが、私は素直に推理して、高野辰之ではないかと思った。

 既に高野辰之作詞と知られる、「朧月夜」や「故郷」「春の小川」などを読むと、その語彙の使い方や文脈の雰囲気が似通っている。武島羽衣の作詞はほんのわずかに世俗的な風情が薄い、少し元気な、楽観的な明るさを伴っていると私は感じる。
 『尋常小学唱歌』シリーズの発刊という制作状況からみても、“レノン&マッカートニー”と称すべき高野辰之と岡野貞一黄金コンビの作品を目録化することが妥当な線ではないかと思うのだが、いつか「冬景色」の作詞作曲者が明らかになってくれることを、私はひたすら望む。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
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グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
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演劇『金閣寺』追想

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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
§
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