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YELLOWS RESTARTのこと

五味彬氏の写真集『YELLOWS RESTART 1999』
 当ブログを自ら眺めているうち、またあの“YELLOWS”が気になりだした。写真家・五味彬氏の写真集“YELLOWS”シリーズについては、これまで1年ごとに書いていることになる(「YELLOWSという裸体」「YELLOWS再考」参照)。
 ここでは他のヌード写真集には目もくれない、それ一辺倒という形になっており、五味氏の撮影した“YELLOWS”シリーズだけに私自身が深いこだわりを有しているように思われるが、ある意味において、その通りである。何故なら、この“YELLOWS”シリーズについて、私はまだはっきりとした解題的な結論を抱いていないからなのだ。

 ならばそれを見直して考察していくしか方法はない。
 当ブログで取り上げた過去の2つの内容は、簡潔に述べればこうである。――私が90年代初頭に体験した社会現象の一つ、すなわち五味彬氏の衝撃的なピュービック・ヘア写真集“YELLOWS”発売。メディアを揺れ動かしたその話題性。後年における私自身のそれに対する回顧的な好奇心。実際にその本を広げて見た時の、まだまだ技術の精度が乏しかったデジタルカメラ・システムに対する興味。そのシステムが100人の女性身体をとらえたピクセル画像というものは、あまりにイメージとはかけ離れた産物であるということを知った、など――。

 理性をかなぐり捨ててシリーズすべてを鑑賞する気は毛頭ないが、1999年の11月にぶんか社から発売された『YELLOWS RESTART 1999』を無作為に選び、わざわざ買い求めて鑑賞した。それも一度のみならず、およそ14日間にわたって断続的に鑑賞したのである。

*

 『YELLOWS RESTART 1999』の帯のテクストを以下、敢えて引用してみる。

《『新イエローズ』シリーズ第1弾!
イエローズ1999 再起動
撮影:五味 彬 完全新作撮り下ろし
「日本人の体型の記録」から「禁断のエロス」の探求へ。
カリスマフードル50人の限界ショット!
欲望の裸体。》

 黒のベタに白の字。中でも“欲望の裸体。”が特に太い明朝体になって強調されている。
 “フードル”とは、風俗アイドルの造語らしい。カリスマ的風俗アイドルが被写体ということになる。
 日本人女性の“体型の記録”から、同じく日本人女性への“禁断のエロスの探求”に方向転換された。その対象が“カリスマフードル50人”であり、これが『YELLOWS RESTART 1999』の《再起動》というテーマである。“RESTART”はプロジェクトそのものが再起動したことを意味するらしいが、かつてコンピューター用語としての流行語であった《再起動》と重ねていることは言うまでもない。

 苦行とも言える14日間、私はこれを鑑賞して、ちぐはぐなものを感じた。感想を一言で言うなれば、〈これが本当に女性のエロスを表現したものであろうか〉という疑問であった。

 初期に発売された『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』は、これよりも6年も前の作品ということになる。「日本人の体型の記録」というのは大義名分に過ぎなかったのは、それがカラー画像でなかったことからも明白で、むしろモノクローム画像であるが故にピュービック・ヘアが強調され、メディアはそれを取り上げた。

 『YELLOWS RESTART 1999』では、6年を隔てて時代的にもはやそれにあやかることは不可能となり、カラー画像になったとはいえ、解像度の悪い当時のデジタル・カメラ・システムでは、人の肌の質感や凹凸、陰影をなめらかに表現する技術に乏しく、逆に劣悪と思えるほど人の肌の色合いが粗悪な画像集となってしまっている。
 例えば乳房の下のシャドーなどは、写真としては本来美しいグラデーションとなるはずなのだがそうなってはおらず、まるで黒のペンで影の部分を加色したかのようだ。

シャドーをほとんど失っている当時のデジタル画像
 これはもうはっきり言うのだが、当時のKodak社の130万画素の酷いデジタル・カメラ・システムを採用した“YELLOWS”シリーズのうち、私が実際に鑑賞した3冊は少なくとも、もはや写真作品でも画像作品でもなく、ましてやアート作品でもなく、単なるランダムなピクセルの集合物に過ぎない。神聖なる裸体を写すなどもってのほかの機械だ。
 “YELLOWS”シリーズは、この劣悪なシステムによって写真の美しさがまず駆逐され、次に裸体の美しさが駆逐され、そこから滲み出てくる「人と人体」へのテーマ性が完全に駆逐されてしまった。それなりに長い歴史を持つ銀塩写真の高度な技術を目撃する中で、80年代のメイプル・ソープの作品「LYDIA」などは、他に追随を許さないモノクローム現像の最高峰とでも言うべきもので、それに比べれば90年代のデジタル・カメラの水準など簡単に置き換われるものではなかったのである。何故“YELLOWS”シリーズであれを採用し続けたのか、理解に苦しむ。

 本書の最後の解説で五味彬氏が自ら述べているのだが、根っからの飽き性でシリーズを続けているうちに飽きて、この『YELLOWS RESTART 1999』でテーマを転換したことによって《再起動》を促された、らしい。使ってきたカメラへの愛着も関心も無い、ようである。

 私が思うに、シリーズの初期の段階で既に、衝撃的なピュービック・ヘアの露出という点で社会現象を巻き起こし、「禁断のエロス」の探求は結晶をみてしまっていた。したがって1999年の《再起動》というテーマは、本質的には不自然であり、極めて個人的なテーマに過ぎなかった。
 とは言え、五味氏はプロフェッショナルであるから、一連の商業写真集すべてがひとまとまりの《大仕事》として歴史に刻まれている。これについては最高の賛辞を贈りたい、と思う。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
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