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関心がなかったマズルカ

 個人の音楽的影響――その源流を探ることは、非常に面白い作業である。しばしこのブログでもそれを試みている。
 実は同じ観点でジョン・コルトレーンの「IMPRESSIONS」について書こうと思ったのだが、参考までに“ある本”を読んでいるうちに、私の意識の方向ががらりと変わってしまった。

 コルトレーンではなくフレデリック・ショパンへ。コルトレーンのそれについては別の機会に書くことにするとして、ここではショパンについて書いてみたい。

 (コルトレーンについて)参考までに読んだ“ある本”というのは、小川隆夫・平野啓一郎共著『TALKIN' ジャズ×文学』(平凡社)のことである。この本の平野氏の言葉の中にショパンのことが出てきて、私はショパンを想い描くかたちに意識が変わったのだった。平野氏はこんなことを言っている。

《ショパンが当時新鮮だったのは、一つには、彼のマズルカだとか、ポロネーズだとかのリズムの感覚があったと思うんです。マズルカもポロネーズも、元々はポーランドの民族音楽だし、当時のパリなんかにいる人たちにすれば、相当土臭い、田舎者の音楽だったはずなんですよ》
(小川隆夫・平野啓一郎共著『TALKIN' ジャズ×文学』より引用)

「名曲鑑賞レコード」に収録されていた「マズルカ変ロ長調」
 この話題で私は思い起こすことがあった。ごく最近、幼少の頃に聴いていた『原色学習図解百科』(1968年学研)の第9巻[楽しい音楽と鑑賞]に付随されたレコード資料「名曲鑑賞レコード」(EP盤全6枚、全30曲)を、ようやく家の中から見つけ出すことができ、そこにショパンの曲があったことを思い出したのだ。「軍隊ポロネーズ」と「マズルカ変ロ長調 作品7の1」だ。

 最初に注釈を加えておくが、これは私個人の音楽的影響の範疇の話である。例えば、ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』については、当ブログの「山寺 Piano Rhapsody」で書いた。その大本はやはり、『原色学習図解百科』(1968年学研)第9巻[楽しい音楽と鑑賞]であり(当ブログ「サン=サーンスの『動物の謝肉祭』」参照)、その本とレコードで得られたクラシック音楽の実際は、私にとって大事な原初の音楽体験であった。このレコードで知った曲の、後年の思い出は枚挙に暇がない。

*

 レコード資料「名曲鑑賞レコード」をもとに第9巻[楽しい音楽と鑑賞]で解説されている作曲家を敢えて列挙しておく。
 ルイ13世、ラモー、カール=ネッケ、シューマン、サン=サーンス、ビゼー、リムスキー=コルサコフ、ヨハン=シュトラウス、グリーグ、ドビュッシー、ベルディ、ヨゼフ=フランツ=ワーグナー、シューベルト、ハイドン、ベートーヴェン、リスト、バッハ、ショパン、メンデルスゾーン、モーツァルト、八橋検校。
 ――こうして列挙してみて、そのほとんどの作曲家の曲を満遍なく幼少の頃に聴いていたのだが、驚くべきことに、何故かショパンの「マズルカ変ロ長調 作品7の1」だけは聴いた記憶がないのだ。マズルカ(mazurka)と聞いて、ぱっと頭に浮かぶフレーズが何一つない。

 私自身は、ショパンからの音楽的影響を、ほとんど受けていないと感じている。ショパンについては詳しく知らなかったし、映画『櫻の園』(1990年)や太田胃散のコマーシャルで知られる「前奏曲作品28 第7番イ長調」は比較的耳にこびりついているが、「子犬のワルツ」ともなると、身体に染み入って残っているとはとても言えない。

 平野氏の“相当土臭い”“田舎者の音楽”という言葉がどうしても頭から離れず、夕べ、「名曲鑑賞レコード」を引っ張りだし、記憶にない「マズルカ変ロ長調 作品7の1」を聴いてみた。

第9巻[楽しい音楽と鑑賞]の「マズルカ」のページ
 聴いてみて、まず確信を持ったのは、本当にこの曲を――つまりこの「名曲鑑賞レコード」の「マズルカ変ロ長調 作品7の1」の部分に針を落としたことがなかった――聴いていないということだ。
 さすがにレコードは劣化していて傷が多く、ノイズが耳障りであった。曲の後半部分には深い傷があるようで、針がそこからそれ以上先に進まない。エンドレス状態になる。ちなみに、この曲を演奏しているのは、田中希代子というピアニストだ。
 ともかく、平野氏が言うようにどうやらマズルカはポーランドの土臭さが強く、少なくとも都会的ではない、ように思われる。マズルカの土臭さ云々は別にしても、ショパンの曲の旋律はなんとなく思慕と可憐さに吸着しすぎる気がして、どうも私はドビュッシーに対するような同じフォロワーの態勢をとることができない。

 こうして考えてみると、今の私の態度と同じことを、幼少の頃にも瞬時に感じ取った節がある。

 私におけるショパンの非選択というのは決して偶然の成り行きではなく、むしろ積極的に避けた感すらある。
 おそらく当時、厳密に言えば一度ほど針を落として、「マズルカ変ロ長調 作品7の1」を初めて聴いた自分は、ある種の嫌悪感というか馴染み得ないものを覚え、二度と聴かなくなった、のかもしれない。そうでなければ、あのレコード群を満遍なく聴いていたその記憶から、漏れるはずがないのである。

 意図的に聴いていなかったという点で幼少の自らの行為に驚かされるのだが、今この不文律を打ち破り、私はショパンのマズルカ集を気の済むまで聴いてみようと思っている。
 無論これは、フレデリック・ショパンという人に対する、私自身の初歩の初歩の、《出発点の再構築》を意味している。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
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 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
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演劇『金閣寺』追想

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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
§
 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…