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百葉箱の記憶

 今から30年近く前の、私が1985年に卒業した母校の小学校の卒業アルバムを眺めていて、懐かしいものを発見した。「百葉箱」である。

 「百葉箱」を辞典で調べてみた。まず『岩波国語辞典』第七版(岩波書店)では、
《百葉箱 気象観測のための、野外に設けてある、白塗りでよろい戸の箱。温度計湿度計などを入れておく。「ひゃくようそう」とも言う》

 とある。
 『世界大百科事典』1967年初版(平凡社)でも調べてみた。長文でこんなことが書かれていた。

《ひゃくようそう 百葉箱 スクリーンscreenまたはシェルターshelterともいい、気温および湿度を測る測定器械を収容するために観測場(露場)に建てた小屋形の箱。日射その他の放射を避け、同時に通風をよくするため、全木製で、頂点を上にしたV形断面のよろい戸を四方に備え中天井と床には穴をあけ、食違いをつけて張り、全面白ペンキ塗とする。箱には木製または鉄製の足をつけ風通しをよくして箱内の空気を測る。北ヨーロッパおよびソヴェトでは約50cm角の容積と地上約2mの床の高さをもつ形式が多いが、これは日射が弱く雪が多いためである。南ヨーロッパおよびアメリカでは足がもっと短い。日本の形式は約1m角の容積と地上1mの床の高さをもつが、多雪地方においては積雪に悩まされる》

 英語では、「百葉箱」のことを“Instrument Screen”と言ったりして、どうも音楽用語っぽく勘違いしてしまう。“Stevenson Screen”だとか“Weather Box”と言う方がポピュラーなようだ。

 ――卒業アルバムの写真に、その「百葉箱」が目立って写っている。白のペンキ塗りの板を並べて囲いを造り、芝生を敷き、地上1mほどの床の高さに箱が設置されている。全木製である。よく見ると、その敷地の地面に、雨量を測る銅製の雨量枡も設置してある。ただしこれは雨量計自体はないものと思われる。

 さらにいろいろな文献を調べてみた。「百葉箱」に関するある論文によれば、1954年に理科教育振興法というのが施行され、小学校における理科教育のための基準設備として「百葉箱」がその一つに挙げられたらしい。
 我が母校の校庭にそれが設置してあるのはそういう理由であろう。理科教育のための設備の設置費用は、その2分の1が国からの補助でまかなわれたようだ。

*

母校の小学校の卒業アルバム写真。百葉箱が右端に。
 私自身の小学校時代の記憶を探っていくと、この校庭に設置してあった「百葉箱」を利用したのは、たった一度だけだったのではないか、と思う。理科の授業で校庭に集まり、「百葉箱」のよろい戸を実際に開けて、温度やら湿度やらを見たかあるいは記録したかして、確か雨量枡も触った憶えがある。ただ、継続してこれらを利用して観測した憶えはなく、あくまで参考程度に、こういうものを使って外の温度や湿度を測りますよ、ということを教えられただけだったのではないか。

 昼休みに校庭でボール遊びをしていると、たまに「百葉箱」の敷地にボールが転がってしまったりする。その中に入ってボールを取る。いちいち飛び越えて入らなければならない囲いの立て板が、邪魔である。
 もしかするとボールが「百葉箱」を直撃したこともしばしばあっただろう。どうってことはない。ただの箱だから…。
 だんだんと、“立派なもの”という印象が薄れていく。いつしか立て板の扉は壊され、ずっと留め金が外れたままになっており、理科の授業としても「百葉箱」を利用することはほとんどなかった。その実相が、卒業アルバムの中の「百葉箱」の哀れな姿に滲み出ている。
 これ自体が校庭の一スペースを悪しく占有する無駄なもの――というイメージが、児童の中に、いや先生方にも浸透していったかも知れない。

 先日、母校の小学校のブログを調べてみた。
 なんと現在の校庭のこの場所には、「百葉箱」自体も、それから立て板に囲まれた芝生の敷地も、完全に消えて真っさらになっていた。我が母校における「百葉箱」の消滅が、いつだったかは定かではない。ただなんとなく、校庭がその分広くなったのはいいものの、むしろ殺風景になってしまった気が、しないでもないのだ。

 こうして私が小学生だった頃も既に利用頻度が著しく低かった「百葉箱」は、記憶の中に何故か残っている。

 閉じられている箱の中に何が入っているかの好奇心は、開けてしまえばつまらない好奇心であったことに気づき、関心がなくなる。よほどの気象学少年でなければ、校庭の温度と湿度を連日観測し続ける行動力も忍耐もない。
 すなわち、子供にとってのそれは、ほとんど利用価値のないものであった。しかし、記憶の中に刻み込まれている。

 白い、ペンキ塗りの箱。白い白い、不思議な物体――。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
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 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
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グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
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