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現像しなかったフィルム

 先日のショパンの話から連想して、こんなことを思い出した。

 私はもう何年も、それこそ何十年もずっと、その机の小さな引き出しの中に、無造作に放り込まれた1本の「フィルム」が在ることを、知っている。
 それは古いポケットカメラの110フィルムという形式のもので、幅が10センチほどの黒いカートリッジである。ポケットカメラで「何か」を撮った日のことは、なんとなく憶えている。小学生の頃だ。とっくの昔に捨てられてしまったのだが、それを撮ったガラクタ同様の玩具ポケットカメラも、どんなかたちだったか記憶に残っている。

 このようなうっすらとした記憶――自分にとってはどうでもいいと思われていた記憶――を、何十年ぶりかにいま、掘り起こそうとしている。

 あれは小学6年生頃であったかもしれない。小学校時代に最も親しかった友人Kが、いつものようにその日も家にやってきていて、長い時間、お互いにそれぞれのテーマで雑談を交わした。いつもは放課後なのだが、どうもその日はよく晴れた日曜日の午前だった気がする。
 Kはよくうちに遊びに来ていた。学級の話や先生の話、その頃流行っていたゲームの話などを、遠慮なく存分に展開した。特に小学5年生以来の、Kとの付き合いによって、その2年間の膨大なおしゃべりの時間は、今となってはありふれた日常であったにせよ、そのリアルタイムの2年間においては最も大切な、最も有益な時間の集積であった。

 その日私は、家にあったガラクタの玩具ポケットカメラをどこからか持ってきて、ベランダで無邪気に寛ぐKを、ファインダー越しに何回かシャッターを切って撮影した。写真を撮るには都合よく晴れていた午前ではあったけれど、あまりにもそれはありふれた日常のうちのスナップ写真に過ぎない。カメラを持ち出して写真を撮ることの行為になんの脈略もなく、実際のところ、被写体としてのKにはなんの魅力も感じていなかった。
 カメラを手に取ってみたこと。シャッターを押してみたこと。そこにおそらく、ベランダで日を浴びたKが写っていることの意味は、偶然の成り行きの、何も繋がってゆかない「空」でしかなかった。

 その玩具ポケットカメラは、自動巻き上げ式ではないので、シャッターを押した後に自分でフィルムを送らなければならない。ただその時の反復の行為の主体は、意識の中にあらず、手遊び――カメラを手に触れて弄ぶことの快楽だったのだ。

 そうして私は、Kが帰った後、ポケットカメラの中のフィルムを取り出して、机の小さな引き出しの中に放り込んだ。これも結局手遊びの延長に過ぎなかった。フィルムをわざわざ写真店に持ち込んで現像するなどということは、まったく考えてもいなかった。放り込まれたフィルムは、ずっとそこに在り続け、何十年もの《時》という旅を続けた。

 かつて親しかったKが最後にうちに訪れたのは、高校を卒業して2年が経過した頃ではなかったか。もしかすると寒い冬であったかも知れない。

 うちにあったCASIOのサンプリング・キーボードSK-1の電源を入れたKは、突然、ショパンの「別れの曲」(12の練習曲 作品10 第3番)をピアノの音で弾いた。SK-1の鍵盤は32鍵しかなく少し弾きづらそうだったものの、子供の頃からピアノを習っていたKは、ショパンのその曲を、まるで自分にとってかけがえのない命であるかのように、大事そうにしながら柔らかな指使いで弾いた。

現存する現像しなかったフィルム
 私はKにピアノの話を吹きかけたことなど一度もなかった。ましてやショパンの話などする訳がなかった。だがその「別れの曲」を聴いて、Kにとってショパンは尊敬すべき人であること、そして「別れの曲」はもしかすると最も大事にしていた曲であったような気がした。
 Kは、何らかの意図でそれを弾いてくれたのか、この日を境に、二度とうちに来ることはなかった。やがてKは一浪して大学へ進学したらしいが、それは風の便り程度の話であった。

 それからもう20年以上も経っている。ショパンの話題からKを思い出して、机の引き出しの中の、そのままになっていたフィルムを手に取ってみた。形としては何も変わっていない。あの時のままである。
 気持ちの中で今、これを現像したらいったい何が写っているのだろうか、ということを想像してみた。いや現像はもはやあり得ない。フィルムという感光材料はとっくの昔に劣化しているから、写真にすることは今となっては不可能である。想像というのは時に不可能を飛び越えるが、ここでの想像はきわめて現実的で、頭の中で写実をイメージすることができない。

 現像したら何が写っている? という好奇心の気持ちとは裏腹に、絶対に現像したくない、という気持ちが、私の心に深く刻み込まれている。
 Kはあの時、ショパンを弾いてしまったから? 「別れの曲」を弾いてしまったから? ――自分自身の中でもまだよく理解していない心理部分が、多く残されている。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

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《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
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演劇『金閣寺』追想

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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…