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私の書肆文芸論

 日本の書店は文芸たり得るか。

 書店における「ネット対リアル店舗」の競争の激化は、それ一つを俯瞰すれば、文化史的に書店謳歌の時代を顕しているとも言える。
 敢えて私の独断で具体例を出してしまえば、それはAmazon対丸善&ジュンク堂対紀伊國屋であったりする。Amazonは別として、私が都内に足を踏み入れた際には、これらのリアル店舗を訪れて店内散策、いや店内探検することは必須要項となっている。私にとって書店の競争激化は、大歓迎なのだ。

 ただし売り上げ競争のみの、書店の潰し合いであってはならぬ。
 書店が文芸たり得るか。読者が文芸たり得るか。あるいは逆に、書店が文芸を捨て去るか。読者が文芸を捨て去るか。そのどちらが先行するのが好ましいのか。翻って、都市部ではない地方の片田舎では、このようなことが惨憺たる状況であることを踏まえなければならない。

*

 最近、私の行きつけであった片田舎の町の書店が、酷く劣悪になりつつある。つまり書店としての体を成さなくなってきたのである。

 この実態を分かり易く説明するために、音楽のハイレゾ(ハイレゾリューション)に例えてみよう。漱石の文庫本を例にとる。

 現在刊行されている漱石の新潮文庫をすべて列挙してみる。
 『吾輩は猫である』『倫敦塔・幻影の盾』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『門』『草枕』『虞美人草』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』『硝子戸の中』『二百十日・野分』『坑夫』『文鳥・夢十夜』『明暗』である。
 もし、この新潮文庫本がほぼすべて揃って“夏目漱石”の著名棚に収まっていた場合、その書店はハイレゾである。素晴らしい“解像度”の書店であると褒め称えたい。

 一方、私の行きつけの、片田舎の町の書店を覗いてみる。
 すると棚には、『坊っちゃん』『こころ』だけであった。

 ありがちな傾向ではある。
 その書店では『吾輩』から『明暗』までの17の解像度がなめらかに再現されておらず、漱石の著書集が大きくぶったきられてたった2冊で集約されてしまっている。言わずもがな、これはハイレゾではない。
 書店を切り盛りする側の理由はあるだろうが、ここまで漱石を省略化してしまうと、書店としての体裁も危うく感じられる。

 明治の文豪、夏目漱石と森鷗外を在庫として除外視する傾向は、地方の片田舎の書店には、多々ある(さらに言えば岩波文庫の除外視)。が、このことが後々地獄の結果を生むということを、どうして書店側は気づかないのであろうか。古い、売れない、難解な本、という理由で簡単に切り捨てていく(在庫を置かない)ということは、多数の読者(来店客)を一挙に切り捨てていくことと同義である。

 ともかく、それなりの品揃えがなければ、老若男女の文庫本を選ぶ楽しさが味わえず、安くて美味い文庫本のありがたさが読者に伝わらない。総じて、本から本へという新しい発見がなくなってしまう。
 書店探検家としては、せっかく洞窟に入って暗がりを楽しもうとしているのに、あっけなく行き止まりになってがっかりして引き返す、というパターンである。こういう書店はまったく面白くない。

 話を戻すが、その私の行きつけの書店は、数年前まではそれなりに、片田舎としてはけっこう踏ん張りのきいた“解像度”を保有していた。ところが、この1年くらいで踏ん張りがきかなくなったのだ。本の“解像度”が一気に粗くなり、品揃えが悪くなった。
 雑誌系を覗いてみても、発売日当日の陳列はおろか、徐々に雑誌の種類を減らしてきており、特に文芸系の月刊誌隔週誌はきわめて貧相となった。しかも棚の隅っこの、非常に目立たない取りづらい位置に置いてあり、文芸雑誌など人気がないから、このかどっちょでいいのだよ、という店側の悪魔の声が聞こえてきそうである。
 こうなると、都内のジュンク堂や紀伊國屋の文芸雑誌コーナーが恋しくなる。店側の劣悪な扱いによって、文芸雑誌がまったく別の、何かクオリティの低い雑誌にさえ見えてくるから不思議だ。よくよく店内を見渡せば、全体の棚の数も減っており、コミックス・コーナーや女性雑誌コーナーに人が立ち寄っていない。もっとはっきり言えば、本を読む客がいないのである。
 さらに私は見逃さない。充実すべき学習参考書コーナーが非常識なほど小さい。辞書系が棚の一枠のみにぎゅうぎゅう詰めに押し込まれて、国語、漢和、英和辞書がそれぞれたった2種類ずつしか収納されていなかった…。

 もはや私にとって欲しい本が置かれなくなってしまったこの行きつけの書店への対処は、様々な感情を圧し殺してぐっと耐え、温かな気持ちで経過観察をする他はないのだが、書店は文芸たり得るかという観点において、危険水準を下回って客足がさらに減ることは否めず、この先どうなるかの想像は決して難しくないと思った。

 本を読み、ものを書くという文芸には、言葉や本への信頼、根深い志、読み書きへの意気込み、物事の批評、こだわり、愛着心が欠かせず、個々のそれらが熟成されていくことが望ましい。
 書店であれば最低限、“村上春樹”が流行ればそれを目立つ位置に陳列し直し、政治が叫喚揶揄された時には関連本を並べ、世の中への関心を惹き付けるといった稼働の策を講じる。
 こうしたベタな企画がいやであれば、言葉や本への信頼をもとに、あまのじゃくな辛口の批評コーナーを設けてもいい。そこは書店の個性で自由であっていいと思う。頗る書店探検家としては、書店が「呼吸する生き物」であって欲しいと願う。是非とも地方の書店には、「文芸力」を競い合ってもらいたい。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
§
 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
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演劇『金閣寺』追想

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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
§
 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…