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下落合のアトリエ

新宿区立中村彝アトリエ記念館
 先週のこと、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」を訪れるため、最寄りのJR目白駅を降りた。
 青空が広がり、冬風はそれほどでもなく暖かかった。

 目白通りを西へ、下落合三丁目バス停を目印に左折する、はずであった。が、陽気の心地良さで身体が弾けていたのか、ぐんぐんと歩調が速まって、バス停を通り過ぎ、さらにその先の日本聖書神学校あたりの路地を左へ折れてしまったらしい。
 ただ、どうもそれは陽気のせいだけではなかった。

 奇妙なことなのだが、私はエロシェンコを見たのだ。街で。エロシェンコ氏が歩いているのを。

 決して幻影ではなかった。
 目白通りを西へ歩いている只中、私の脳裏にしっかり刻み込まれたロシア詩人ワシリー・エロシェンコ氏の顔によく似た白人の若者が、目の前を通り過ぎたのである。クシャクシャな金髪と、盲目の瞼のような――。

*

朝日新聞朝刊茨城版1月15日付コラム「作家とアトリエ」
 先月、朝日新聞朝刊の茨城版に県近代美術館での「作家とアトリエ展」を紹介するコラムが掲載された。昨年の12月に没後90年を迎えた、水戸出身の洋画家・中村彝(つね)を伝える記事だ。

 その中村彝のアトリエを見てみようと思い、こうして下落合を訪れてきた訳なのだが、いくらよく似た人とは言え、エロシェンコ氏を街で見かけるとは。私の過ぎた期待もここまでくれば、青空の彼方で彝氏も笑っていることだろう。

 しかしそれにしても、この界隈は住宅街でありながら、細く入り組んだ路地の静かなる迷路窟でもあった。どうやら私はこの迷路に迷い込んでしまったようで、アトリエ記念館を探すのに入り組んだ路地を何度も往来し、冷や汗を掻いた。

 ――ようやくアトリエに辿り着いた。
 今、その時の記憶を思い出しながら、これを書いている。

 中村彝の年表を参考にすれば、大正5年8月、東京府豊多摩郡落合村下落合に画室のある家を新築する。彝29歳。前年には相馬俊子との恋愛が打ち砕かれ、翌年5年の1月に俊子と最後の面談を交わす。
 この間の、俊子への煩悶と、肺結核を抱える身体的苦境とによる彝自身の喘ぎというものは、想像を絶して忍びない。先述の新聞コラムには、《戦死した兄の年金やパトロンからの援助により、29歳で念願のアトリエを新築》とある。

 同年に彝は「落合のアトリエ」という画を描いている。
 背景はやや薄い群青色。家の建物の手前中央に枯れた木が1本描かれていて、画面を大きく跨いでいる。実際の真っ赤な瓦とは裏腹に、画面上の家の瓦はやはり薄めの朱色で、それが背景の群青から浮き上がる造形となり、色合いがまるで中央の木の枝自体の黄葉のようにも見える。要するにこの画には、彝が好きであった秋、晩秋の趣があるのだ。

 私は実際に、中村彝のアトリエの室に入った。
 なかなかどうして、室の空間は広い。室にはいくつかの画が飾られていた。採光窓を正面とするならば、飾られている左の画が彝の描いた「エロシェンコ氏の像」(1920年・大正9年)であり、右の画が鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ」(同年)である。二人はエロシェンコ氏をモデルにし、競ってそれを描いた。
 中村彝の著書に、「エロシェンコ氏の像」に関して自説を述べた書簡がある。

《「エロシェンコ」の肖像について(あの絵では色数を出来るだけ節約し殆ど二三色でかいた)「方法と材料とは簡単な程いい。思想が充ち、効果を見る目が明かになり、腕が相当熟練して来さえすれば、方法や材料は如何に簡単でも充分雄弁に、且つ「堅牢不壊」の感じを与え得るものである」――正しき方法を頑固に守る事、そしてそれを極度にまで生かし充実せしめて、全く「自己のものとなしきる」事、そこに画家の真の道がある》
(中村彝著『藝術の無限感』中央公論美術出版より〔旧字体を新字体に改め〕引用)

 放浪の詩人であったエロシェンコ氏の波瀾万丈の生涯が、そのくぐもった表情の内に刻み込まれたと言うべきであろうか。鶴田吾郎の描いたそれが、やや引きの構図となっているのに対して、彝の「エロシェンコ氏の像」はかなり前のめりになって写生した感がある。故に、画から何かが迫ってくる。これが彝の言う《内面》の描写なのだろうか。

復元された中村彝のアトリエ
 そして彝にとってエロシェンコ氏は、自分とは真逆の、自由なる外野を大きく彷徨う人であり、結核という怪物を背負った、言わば小さな内野に佇む最小の自己にとって、ある種羨望の人であったかも知れない。そのお互いが、偶然な成り行きにも、一つの空間に同化する(片方はリンゴを丸かじりしながら)。

 だが果たして、エロシェンコ氏は本当に自由であっただろうか。外野の人であっただろうか。

 アトリエを通じて、その昔そこで息をした人物達の画を、私は見つめ続けた。彼らは息をやめ、画だけがぽつりと残っている。
 これすべてが、《描く》ということなのだ。彝の述べた「画家の真の道」が、ずっと先の未来まで続いている。あの白い採光窓から空が見えるような気がした。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

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《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
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 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
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a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
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グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
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§
 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…