スキップしてメイン コンテンツに移動

中村屋サロンと中村彝

 中村屋サロンと中村彝についての本題に入る前に、新宿東口界隈についての個人的な思い出を記しておく。

 中学生の頃――それは昭和60年前後――「トーキョー」と言ったら私の中で「シンジュク」であった。新宿がトレンドであった。というくらい、あの頃は何かしらの機会に新宿駅を訪れ、東口界隈をよく歩き回った。

 私の中で、東京への憧れは、新宿への憧れと同義であった。
 専ら地下のプロムナードを歩き回ってから地上に出、アルタの巨大な街頭ビジョンを見上げつつ、紀伊國屋書店で立ち読みしたり、マルイへ入ったり、あの頃盛んだった新宿コマ劇場での演歌歌手の公演を観たりしたこともあった。そう言えば、スピルバーグ監督の映画『カラーパープル』(原作はアリス・ウォーカーの同名作)を観たのも、確か歌舞伎町の新宿ミラノ座だったし、シアターアプルや紀伊國屋ホールは演劇少年であった私には憧れの劇場だったのだ。

 中学高校と演劇仲間が入れ替わる。それでも尚、演劇に関する情報収集の場は、常に紀伊國屋書店であった。話が前後するが、中村屋サロン美術館を訪れた直後、私にとって懐かしい紀伊國屋書店にも足を運んだ。

 ここは昔と何も変わっていない。ただし東京においての“変わらない”というのは一過性のもので、次に訪れたらまったく変わっていたということがよくある。たまたま私が“変わらなかった”現状を見ただけに過ぎず、あまりこの場合の肯定は意味をもたない。

 紀伊國屋書店(新宿本店)にあったあの頃の熱気は、なんとなく薄れた感がなくもない。
 芸術・演劇関連の本が並べられたスペースの、必ずしも群がっているとは言えない程度の、内省的な熱気を帯びた人だかり。あの頃、演劇の本を読むには紀伊國屋書店に行くのが最適と思われ、よく演劇関連のスペースに立ち寄った。
 演劇や戯曲関連の売り場には、若手の演劇人がしばし立ち読みしていることもあり、その雰囲気がいかにも演劇人らしさを醸し出していて空間的に味わい深かった。紀伊國屋ホールで様々な公演のチラシを貪るのもよくやった。一つの公演を観終わると、持って帰るチラシの束の分厚さに驚くのである。ともかく、書店の雰囲気は大幅に変わり、いまその種の文化的気勢はどこにも感じられない。

*

新宿中村屋ビルのパネル
 今年の1月、私は新宿区立中村彝アトリエ記念館を訪れて、中村彝と鶴田吾郎のエロシェンコ肖像画の複製を観た(当ブログ「下落合のアトリエ」参照)。

 今回、中村屋サロン美術館(新宿中村屋ビル3階)を訪れ、中村屋所蔵の鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ」(1920年)を間近で観ることができた。かつて中村屋サロンに集った芸術家たちの作品が、貴重にも展示されており、その中に中村彝の、相馬俊子を描いた画があって、私の胸は本物を観る悦びでときめいた。

 その一つが、「小女」である。
 彝は1913年から14年にかけて、おそらく猛獣となって俊子を追いかけ、彼女の像を描きまくった。「小女」は1914年の作品だが、前年に描かれた作品と比べて、どことなく俊子の表情が子どもっぽくあどけない。俊子の乳房を露わにした前年の「婦人像」や「少女」「少女裸像」の方が遥かに大人びていて、画家とモデルとの関係性において少し客体的に思える。
 ところが翌年の「小女」はまったく違い、彝の恋心が既に完膚なきほどに焼き尽くされて、俊子の肉体の細部に至るまで怨念が込められている。したがってその俊子の両腕の描写の肉感は、尋常ではない。

 創作活動におけるサロンというのは、物理的空間として必要不可欠であろう。今で言うSNSだけでは、まったく事足りないものである。
 それは芸術への意識開化の場であり、研究錬磨の場であり、人脈の場であったりするが、それぞれに含みをもたらし、仮想空間ではおよそ経験し得ないプラスアルファを有する。サロンは主宰者の懇意によって成立する。
 中村屋の相馬夫妻は中村彝の面倒を見、その中村彝は俊子に出会った。彝と俊子の恋慕の関係は後に瓦解するのだが、彝は俊子像で多様な美の結晶を遺すことができた。

 都市空間の時代が違うとは言え、かつてこの場所に多彩な芸術家が集ったサロンがあったとは、なかなか想像し得ないことだ。しかしそこに彝が居て俊子が居て、ということを想像する時、芸術作品の発端と出発の奇妙さはなんとなく理解できる。街の隅々にいたる人と人との交流の中から、作品は生まれ出てくる。新宿はそういうサロンの巣窟であったのかも知れない。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
§
 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
 物語(あるいは世界観のようなもの)を大雑把にゆるく説明すると、こういうことになる。ここは広大な砂漠。そこには、国と国を分け隔てる「壁」があり、その「壁」と「壁」との間にある砂漠が、“私たちの国”。果たしてこの「壁」は、いったいいつできたというのだろう。仮国境の外にある“向こう側”、“あっち側”との軋轢によってテロ事件が巻き起こり、「わた…

演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
《神奈川県横浜市の中心的商店街で中区にある。東京の銀座、大阪の心斎橋筋などとならび称せられる繁華街。第二次世界大戦後は焼け残ったおもなビルや周辺一帯が広く米軍用地に接収されて復興が著しく遅れたが、現在では活況をとりもどし、各種デパート、商店、映画館がたち並んでいる。この一帯は江戸時代前期、1659年(万治2)の干拓による吉田新田にあたっているが、開港後港を中心とした関内(かんない)すなわち外人向け商店街として開かれ、明治初年に共同して開発にあたった伊勢屋と佐々木氏の屋号をとって、町名にしたという》 (『世界大百科事典』平凡社・1964年初版より引用)
 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
§
 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…