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リョウくん、オートミールだってよ

これがあのQUAKER OATS
 この夜、私は東広島市西条の酒、「賀茂鶴」をぐいと飲み干した。
 そうしてとろりとした触感で舌をよく馴染ませ、私は次に試みる食品を口に含ませた――。もし酒を一滴も飲まずにほろ酔いゼロでこの食品を口に含んだとしたら、この稿はすべてNGになったかも知れない。

 その食品は、QUAKER OATSつまりオートミールである。

 先日、朝日新聞のコラムで作家・朝井リョウさんがオートミールにまつわる想い出を綴っていた。子供の頃憧れたオートミールを食べてみたら不味かった、という話である。

 私はこの記事を読むまでずっと、オートミールとは、西洋の伝統的な家庭料理の煮込み汁か何かだと思っていた。煮込み汁。ソップ。スープ。確かに見た目はスープなのかも知れないが、あれは結局、粥のようなものだ。

 私は今までいったい何と勘違いしていたのか。
 それは、英国のクリスマス・ディナーに登場するスープであった。『青年小泉信三の日記』(慶應義塾大学出版会)の倫敦日記を読むと、クリスマス・ディナーについての記述がある(当ブログ「クリスマス・プディングの話」参照)。ロンドンに留学中であった小泉信三氏の、大正元年12月24日の日記である。その箇所をかいつまんで書くとこうである。

《まず型通り七面鳥の蒸焼を食う》
《クリスマスプディングでブランデーをかけて火をつけて食う》
《クリスマスプディングの外にミンスパイがある。不味そうな果物が出る。乾葡萄、アーモンドが出る。桃か何かの砂糖漬のようなものが出る。何れもうまくはない》
(『青年小泉信三の日記』(慶應義塾大学出版会)より引用)

 小泉氏は何から何まで、不味い不味いと言う。そこにはスープの話など一つも出てこない。が、それでも私は頭の片隅で小泉信三のこの日記の部分を憶えていて、勝手な絵空事を想像し、そのクリスマス・ディナーにはスープが出たに違いない…そのスープはオートミールなんじゃない?…漱石だって吸ったことあるんじゃないの…と無茶苦茶につなげて焼き印を押してしまっていた。

5月9日付朝日新聞朝刊より「作家の口福」
  コラム「作家の口福」の「オートミール 少年の夢と現実」。私はこれを読んですぐさま、オートミール食ってみたい、と思った。まずいと書いてあったから、いやいや全然美味しいじゃん!リョウくん!という自身の感想を捻り出してみたくもなったのだ。

 何かと汗ばむ初夏、オートミールでこんなに興奮するとは思ってもみなかった。
 程なくしてオートミールの缶が自宅に届いた。おお、これがオートミール。

 『岩波国語辞典』(第七版・岩波書店)で原料の「燕麦」(えんばく)を調べてみた。

《コムギより葉が広く丈が高い、いね科の一年生または多年生の植物。実は細長く、馬などの重要飼料。オートミールとして食用にもする。カラスムギの改良種か》
(『岩波国語辞典』第七版より引用)

*

 エンバクってどんな味かしらん。

 鍋に牛乳1カップ、QUAKER OATSを半カップ入れて、火をつけてほんの数分、コトコトと煮立ててみた。出来た。

 さあ、僕ちゃん召し上がれ。
 うん? 思ったよりも…まずくはない、うん?…うん?…うん?
 まずくはない、うん?…おいし?…うん?…まずい?…まずい??
 うん、まずいです。

 味がヘンという不味さではない。味がない不味さ。たとえると、白米の粥に昔飲んだことのあるプロテインを薄めて混ぜたような味。
 だからすぐに飽きてしまう。飽きてしまう不味さ。心が全然ときめかない不味さ。とても毎朝これをいただく気にはなれない。
 おそらく他の食品と混ぜたり違う食感になるような調理をすれば美味しくなるのかも知れない。でも、牛乳と煮詰めただけではやはり不味い、としか言いようがない。これは事実だ。でも決して救いがない不味さ、ではない。

 ところで、QUAKER OATSの缶にまだいっぱい乾いたエンバクちゃんが眠っているのだけれど、これどうしましょう、という感じ。もう牛乳で煮詰めて食べる気力も勇気もない。馬も飼ってない。

 まだ封を開けていないホットケーキミックスがあったので、あとでこれに工夫して入れて、ちびくろさんぼも大喜びのバターと蜂蜜たっぷりのホットケーキ[ちょっとびっくりのオートミール・ミックスだよーん!]を作るしかないと考えているが、それでもまだ絶対余る。

 朝井さん、何とかして下さい。オートミールを美味しくいただけるグッド・アイデアのレシピ教えて。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
§
 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
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演劇『金閣寺』追想

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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…