レンズへの惑溺

ソ連製レンズJupiter-8の不思議な蒼さ
 1960年代のソ連製レンズ、Jupiter-8(50mm/F2)はなんだか玉が蒼い。この蒼さの魅力に取り憑かれて、まるで女性が香水や宝石に夢中になるように、私はこのレンズを光に透かして眺めるだけで、とても心地良い気分になるのだった。

 幸運にもというべきか、私はこのJupiter-8でシャッターを切り、光の造形を印画したことがない。あまりにも美しい蒼さに心が吸い込まれ、欲望の挙げ句の果てにこのレンズで写真を撮ったものの、その造作が真逆の代物であったとしたら、きっと私は嘆き悲しんで後悔するだろう。そしてJupiter-8を手放してしまったかも知れない。写真というものが万物の実体に多少の美――美的細工を施し幻覚性を帯びたもの――を供えた作品であるならば、尚更、Jupiter-8の純潔永遠と思われる蒼の美に、私はずっと酔っていたいのである。

 自分で撮った過去の写真を時折眺めると、そのあたりの記憶やら体験がふと甦ることがある。

 11年前に京都の清水寺を訪れた時、偶然出会った中学生たちを何気なく写真に収めたことがある。今となってはそれが私のベスト・ショットだったのではないかと思えるのだが、カメラの機構話から外れて、私はこの11年間、その写真を眺めることで、中学生らしい健気な彼らの懐に入り込んだ気分になっていった。さも親密な間柄として――。無論それは写真に有しがちな特性の錯覚なのだけれども、やはり出会ったのが偶然ではないようにも思えてくる。

 出会った時の彼らが15歳だとすれば、もう今は三十路に手が届きそうな年齢となり、立派な社会人であろう。愕然としてしまう。さらにこの先、互いに年はかさむ。人はあっけなく年を取っていく。しかし私にとって彼らの存在は、いまだ15歳の中学生のままである。故に写真は、時が停まった二次元のディスクールなのだ。

 したがって私はずっと、15歳の彼らと対面し続けたことになる。こうした写真を巡る体験が、実に不思議と生きる糧を与えてくれる。創造を与えてくれる。

 クラシックカメラを蒐集するという欲が薄まったある日から、写真にまつわるこうした不可思議な体験と同等のものを、音楽の中で体現していくことになる。20代の頃の音楽の迷いが、写真とカメラという写実作画の世界を知ったきっかけとなり、それがまた音楽への創造へと戻っていく。私の視覚性と聴覚性との関係は、案外そんなところにある。

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