スキップしてメイン コンテンツに移動

『洋酒天国』と赤玉パンチ

『洋酒天国』第22号
 子供の頃、洋酒に憧れ、大人になったらそれを絶対呑んでみたいと思う酒が2つあった。自宅の食器棚の高い所に置かれていた、緑色の酒=サントリーの“MIDORI”(メロン・リキュール)。そしてテレビ・コマーシャルを見て憧れた、真っ赤な酒“赤玉パンチ”。

 何と言ってもその緑や赤の鮮やかな色合いに惹きつけられた。普段飲んでいるジュースと同じように、色によって酒の味を想像したのだ。一体あの緑や赤は、どんな味がするのだろう。何故大人はあんな飲み物を好んで大事そうに飲むのだろう――。

 めくるめく想像は膨らみ、成人して憧れの“MIDORI”を呑んだ。が、大して喜びは湧かなかった。羽ばたいて飛んでしまえそうな酒の味のイメージとは、随分とかけ離れていた。とは言え、私の舌と喉と腹は、酒というものを受け入れる人生喜怒哀楽のなんたるかを、まだ十分に呈していなかったのである。

 『洋酒天国』(洋酒天国社)第22号は昭和33年2月発行。表紙にある船の甲板に置かれたトリスのイメージは、第22号の主立った中身を統合すれば《旅》ということになろうか。酒呑まずして旅にあらず、といった箴言が聞こえてきそうだ。

 第22号筆頭の小松清著「もう一度行って、住んでみたいスペイン」のエッセイは、旅の叙情と酒とをうまく絡めた秀逸な文体である。アンドレ・マルローの訳者で知られる小松氏の、3週間のスペイン旅。ヨーロッパの旅のなかでは美術を観て回れるスペインとギリシアがいちばんと言うが、風土や人情の点ではスペインが楽しいと書いている。スペインは《まだまだ人間的な感情を民衆生活の奥深いところでのこしている》と。

 小松氏は旅先のバルセロナの“カラコーレス”というレストランを紹介している。蝸牛すなわちカタツムリ、すなわちエスカルゴ料理。さてそれがフランスでのそれと同じなのか違うのかよく分からない。野生のカタツムリを、よく洗い、1週間ほど空き缶に閉じ込める。そこで汚物をすっかり出させる。そうしたものをニンニクと唐辛子で味をつけ、オリーブオイルで炒める、らしい。スペイン料理には白ぶどう酒がいちばん、「ヘレス」(シェリー酒)にかぎるというようなことも書かれてある。

*

ノーメル賞グラン・プリ決定!
 今号で驚いたのは、「1958年全日本カクテル・コンクール ノーメル賞グラン・プリ決定!」である。壽屋と各社共催のカクテル・コンクールのグランプリが決まった、という記事。
 そのグラン・プリが「赤玉パンチ」なのである。なんだ、そうだったのか。私が子供の頃に憧れた酒“赤パン”は、このコンクールによって生まれたのだ。

 応募総数12,772通。数回にわたって予選をおこない候補作品を20点に絞った。審査員の名に、岡本太郎氏や徳川夢声、薩摩治郎八氏がある。

 「赤玉パンチ」の作者は角田与氏で、レシピが記されてあった。赤玉ポートワイン、パインジュース、砂糖、レモン汁。
 意外にもシンプルな材料である。味を想像してみる。赤玉ポートワインの甘ったるさにパイナップルの甘さ、さらに砂糖の甘さまで加わる。どこまで甘くすれば気が済むのか、といった大甘カクテルではないか。実際、商品化されたのはもっと後年のことで、現在は製品化されていないはずである。

19番が赤玉パンチ
 このコンクールで佳作とされた他のカクテルの名称を見ても、なかなかユニーク。「私の秘密」だとか「純愛」だとか「ベビー・ムーン」だとか、これらもきっと相当甘めなのだろうと想像してしまう。昭和30年代、日本人の舌は甘い酒を好んだ、と言える。甘くしなければ飲めなかったのか。ともかくこのコンクールでは、1種の洋酒に甘いジュースを加えに加えという手法が目に付く。

 しかし会場(産経国際ホール)の雰囲気が伝わる写真は、なかなかアダルトなもので、淡谷先生の熱唱写真も添えられていて品がいい。酒の味はともかく、雰囲気だけを味わうにしても昨今ではなかなか実現しない情趣である。
 審査員のなかには、笠置シズ子さんが混じっている。ここで彼女はブギを披露したのだろうか。ブギに相応しい会場に思えるのだけれど、ちょうど歌手業をやめた頃に重なるので、もう既に歌わなかったのか、それとも歌ったのか、私にとってはそちらの方が知りたくなってしまった。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
§
 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
 物語(あるいは世界観のようなもの)を大雑把にゆるく説明すると、こういうことになる。ここは広大な砂漠。そこには、国と国を分け隔てる「壁」があり、その「壁」と「壁」との間にある砂漠が、“私たちの国”。果たしてこの「壁」は、いったいいつできたというのだろう。仮国境の外にある“向こう側”、“あっち側”との軋轢によってテロ事件が巻き起こり、「わた…

演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
《神奈川県横浜市の中心的商店街で中区にある。東京の銀座、大阪の心斎橋筋などとならび称せられる繁華街。第二次世界大戦後は焼け残ったおもなビルや周辺一帯が広く米軍用地に接収されて復興が著しく遅れたが、現在では活況をとりもどし、各種デパート、商店、映画館がたち並んでいる。この一帯は江戸時代前期、1659年(万治2)の干拓による吉田新田にあたっているが、開港後港を中心とした関内(かんない)すなわち外人向け商店街として開かれ、明治初年に共同して開発にあたった伊勢屋と佐々木氏の屋号をとって、町名にしたという》 (『世界大百科事典』平凡社・1964年初版より引用)
 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
§
 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…