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兵馬俑に出会う

東博にて。『始皇帝と大兵馬俑』
 1月7日、“博物館に初もうで”に行った。私はほぼ毎年のように東京・上野公園の東京国立博物館を訪れる。
 正月の特別公開である葛飾北斎の富嶽三十六景(凱風快晴、山下白雨、神奈川沖浪裏)と狩野山雪の猿猴図は間近で観ることができた。だが長谷川等伯の松林図屏風は何故かスルーしてしまった。国宝の松林図は個人的にちょっとした思い入れがあったにもかかわらず(当ブログ「高瀬川」参照)。いずれにしてもこうした風光明媚な国宝を眺めることができたのは嬉しい。

 年始は例年と比較して暖かかったように感じられた。この日も寒さで震えることなく上野公園を快活に散歩することができた。が、気がつけば、東博の年間パスポートが去年で切れていた。珍しく今回はチケット売り場に並んだ。

 東博の正門から奥に位置する平成館までは、数百メートルあるだろうか。いつもこの時期は寒いので、足取り速く平成館へと向かうのだが、春を思わせる陽気でまずは館内散歩という気分になり、植え付けられた木々の種類やら成長やら方々見回しながら、たっぷり時間を使っての足取りであった。

*

東博の本館正面。平成館へは左側から奥へ向かう
 私にとって息を荒げずにはいられない待望の――昨年の秋から開催されていた――特別展『始皇帝と大兵馬俑』に訪れる。ホームページを見ると、昨年の12月の時点で入場者数は20万人を突破したとある。年が明けての観覧は正解だったかも知れない。午前、平成館へ向かう観覧者の多さはそれほどでもなかった。

 特別展『始皇帝と大兵馬俑』。ここ最近の東博の特別展においては、最も東博フリークの関心が高まったテーマではなかったかと思われる。始皇帝と言えば秦の始皇帝。歴史の教科書でも度量衡や貨幣の統一、焚書坑儒、万里の長城の修築などが挙げられ、知らぬ者はいない。しかしながら私は、ユーラシア大陸東部の壮大な歴史と浪漫に、疎い。“始皇帝”と“兵馬俑”と聞いて連関せしめるイメージがごくごく限られている。つまり今回は分からないことだらけなのである。

 ただし、“兵馬俑”の方は、わずかに連関というか微々たる空想が広がるものがあった。
 高校時代に初めて買った漢和辞典に、“兵馬俑”の写真があった。これが私にとって初めての“兵馬俑”との出会いだったのだが、けっこうインパクトがあった。兵士の形をした埴輪的ものが、数千も埋まっていたという驚き。その一つ一つが、違う表情をしているという驚き。漢和辞典ってなるほど面白いなと一瞬思えたのを憶えている。

 確か本の装幀が紺色のその漢和辞典は、どうやら旺文社の『漢和辞典』だったようだ。高校時代にそんな“兵馬俑”に出会い、国語の授業では難読と感じられた漢文の、『詩経』の「桃夭」だとか武帝の「秋風辞」だとかを筑摩の国語教科書でえらく習ったものの、ただただ難しくて苦痛で、身悶えしながらそれに耐える体力はまったくなく、ほとんどその時期は頭が空中分解していたに違いない。

 そうして漢文の授業は陶潜(陶淵明)の「責子」の読解まで進み、教科書への鉛筆の書き込みが甚だしいのだけれど、『論語』だとか孟子だとか老子だとか漢文の奥深い授業には至っておらず、今となっては屈原の「漁父辞」くらいは予習復習すべきではなかったかと思う。これが私のいかんともし難い大陸に疎い根本原因なのではないかと、今更猛省する次第だ。

 話を漢和辞典に蒸し返すが、そこで“兵馬俑”を知り、つまりは“俑”という漢字を覚えた。手持ちの『岩波 新漢語辞典』(第三版・岩波書店)で“俑”を引くと、

《ひとがた。死者の霊を慰めるために副葬した人形。「陶俑・兵馬俑」》

 とある。そうした“兵馬俑”の実物を、私は東博で本当に観たのだ、ということになる。漢文の読解には決して到達しそうにないが、始皇帝の時代の大まかな変遷と浪漫主義的なものはなんとなく、胸に刻まれた感がある。
平成館玄関前
 陝西省の始皇帝の陵墓の兵馬俑発見が、まだ近年と言っていい、私が生まれた年の直後の1974年であるという事実も、浪漫を掻き立てる材料となっている。始皇帝の時代の遥か昔、殷王朝の時代の王墓にも、死者への供え物として青銅の武具や馬車が埋められたらしいが、そうしたものを《埋める》風習というか貴族文化が紀元前より継承されていたことに風雅が感じられる。
 今回の特別展では、秦時代の2つの銅車馬(複製)を観ることができた。青銅であることを思わせない細工が施され、気品が漂う。それにしても埋蔵品としてのスケールがいちいち大きい。秦始皇帝陵博物院蔵の兵馬俑群は陶製で、ほぼ等身大だそうだが、陶製のせいか肉厚があり、等身大より少し大きめに感じられた。故に一体一体に漲る迫力があった。この兵馬俑の展示の仕方も工夫が為されていて、順路からのスロープ途中でまず全体を眺望し、スロープを降りてから間近で、兵馬俑を360度舐め回して鑑賞することができる。

 東博の観覧から帰ってきて、司馬遷の『史記列伝』(岩波文庫)を少しばかりかじってみた。翻訳がとても端整で文体のリズムがある。これなら読み易く、春秋・戦国時代を知るよすがとなりそうだ。「孫子・呉起列伝」はある種、時代の生々しさの塊である。

 特別展『始皇帝と大兵馬俑』を観て、まだまだ分からないことだらけでどうしようもないのだが、いわゆる秦の国のあたりの、農耕にとって肥沃な黄土地帯と黄河がもたらす水の恵みとが人民の活力を生み、想像を絶する巨大な文化となっていったのは、理解できる。
 何よりも優先すべきインフラ、すなわち生活のための社会基盤の建設と整備はとても重要だ。そうしたものを疎かにする政治は、悉く腐敗し滅びる。想像すれば、蟠螭文鏡の鈍い照り返しが、それを現代に伝えてくれよう。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
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ファミコンの思い出―プロレス

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