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『ぴあ』―演劇のための雑誌という定義

雑誌『ぴあ』1987年5月15日号
 チケット販売事業の大手ぴあ株式会社がかつて発行していた隔週刊雑誌『ぴあ』は、私にとって忘れがたい懐かしい雑誌である。それをもっと誇張して言うなれば、80年代から90年代にかけて、我が青春時代を謳歌した、大切な経験の思い出の詰まったエンタメ雑誌、ということが言えるだろう。

 この雑誌『ぴあ』が首都圏版を最後に休刊したのは、2011年の7月である。これについては当ブログ「いソノてルヲ先生の思い出」で触れた。私自身が実際にこの雑誌を使って“青春時代を謳歌”したのは、中学校に入ってからだ。その後20代前半くらいまで、欠かさず毎号買っていたはずである。ここに今、その頃の、私が中学3年生の頃に読んだはずの貴重な『ぴあ』がある。No.292、1987年5月4日~5月17日の2週間分のエンタメ情報を掲載した5月15号。

 尤もこれはずっと所有していたものではなく、以前、オークションにて入手したものなのだが、表紙は見ただけで『ぴあ』だと分かる、及川正通氏のイラスト。
 そこに描かれている人物は、この時期来日公演(大阪と東京)をおこなった大物スター、ライオネル・リッチー。リッチーの頭部の美しい楕円に沿った縮れ髪とそのひょうきんな表情は、見ていて思わず笑ってしまう。首の折れた(首をかじった?)オスカー像は前年のアカデミー賞で「Say You, Say Me」が歌曲賞を受賞した際の、及川流の何らかの風刺なのだろう。が、その主意はよく分からない。いずれにしてもあの頃の『ぴあ』の図抜けたセンスの雰囲気が伝わる名表紙だ。

 そんな『ぴあ』のページを次々開いていくと、懐かしさで万感込み上げてくるものがある。広告から記事から隅々にいたるコラムや告知情報のすべてが、私にとって郷愁の宝庫となっている。まったく個人的な興味の範疇で懐かしいと思える活字とビジュアルを、断片的に少し拾ってみたい。

 まず、ニューディスクのコーナーで紹介されていたのは、デビッド・ボウイの『Never Let Me Down』。それからシンプリー・レッドの『Men And Women』。あるいは堀ちえみの『スカーレット白書』。いずれもLP。この頃私はグラミー賞を受賞したシンプリー・レッドのCDアルバムを、まんまと影響されて、買っている。
 続いてどんどん拾っていこう。試写会の欄は、ウーピー・ゴールドバーグ主演の映画『Jumpin' Jack Flash』。そうだあの頃の映画だ。ウーピー・ゴールドバーグは当時かなりの売れっ子だった。広告で懐かしいのは合宿運転免許と青年海外協力隊員募集(私はやはりこれに影響されて、青年海外協力隊員募集の資料と願書を送ってもらったことがある)。
 プレゼント賞品のページでは、アイドルタレントのテレホンカード。ちなみにこの頃はレーザーディスク、コンパクトディスクが流行り、ハイファイなS-VHSビデオデッキが先端だった。
 相米慎二監督の新作映画『光る女』の制作発表の記事もある。プロレスラー武藤敬司の起用で話題になった映画。どんどん拾っていこう。ラッキーストライクの広告の裏に、マイルドセブンの広告。そこはジャズ系のFMラジオ番組の宣伝用エッセイのページ。エリック・ドルフィーが紹介されている。
 もっとこまかいところを見てみる。カシオペアのコンサート、パール兄弟の日本青年館ホール公演の告知。うーん懐かしいパール兄弟。NECショウルームC&Cプラザの欄では、先述したライオネル・リッチーを紹介するイベントだとか、「海のトリトン」などの東映ビデオアニメ大集合イベントの日程があり、ビデオはみだし情報にはヘラルド・ポニー再発売ビデオとしてヒッチコックの映画『北北西に進路を取れ』が紹介されている。かなりこまかい情報。
 そうして忘れてはならないのが、この年の8月におこなわれたレベッカの横須賀ライヴの告知。私はこれを観に行った(当ブログ「REBECCAの記憶」参照)。
 もう一度ニューディスクのページ(CD再販)を眺める。今でこそフレディ・ハバード『バラの刺青』だとかエラ・フィッツジェラルドのガーシュウインものの盤に眼が移るが、あの頃はジョージ・ベンソンだとかダイアナ・ロス、戸川純の『東京の野蛮』などにそそられていた。『東京の野蛮』って一体何なのだろう。

*

 さて、ここからが本当の郷愁。演劇の話。結局は、私にとって雑誌『ぴあ』は何だったかというと、「演劇を観に行く」のと「FMラジオを聴く」ための雑誌、に集約されていたということになろうか(雑誌『ぴあ』のFM番組表はミュージシャンやアーティストのインデックスが併記されていて実に見やすかった)。

『ぴあ』の演劇情報のページ
 演劇に関してはもう、観たい芝居を探り当てることに枚挙に暇がなかった。例えばこの5月に劇団善人会議の『夜曲―放火魔ツトムの優しい夜』が新宿の紀伊國屋ホールで催されているが、1987年当時はまだ善人会議を知らなかったから、情報としてもスルーしている。新宿コマの、八代亜紀公演は前年の秋に観た。新宿駅南口に巨大なテントが仮設され、そのキャッツ・シアターでの劇団四季『CATS』もいずれかの時期に観ている。同劇団四季の日生劇場での『ジーザス・クライスト=スーパースター』はスルー。その代わり、日下武史主演の『この生命は誰のもの?』を6月に青山劇場で観劇。NLTの『毒薬と老嬢』は観てみたかった舞台で、北林谷榮さんと賀原夏子さんの老婆役はこの雑誌でのビジュアルの印象が強かったものの、観る機会に恵まれずスルー。

 三宅裕司氏のスーパー・エキセントリック・シアターは後年観た。まったくキリがない。雑誌『ぴあ』で擦り込まれた劇団名と役者、あるいはその演目は頭に残っているから、あの時この劇団はこんな公演をやっていたなとか、この劇団はよくこの劇場を使っているな、といったことが分かってくる。そういう意味で言えば、加藤健一事務所の公演はずっと『ぴあ』を見ていて刮目していたのに、何故か足を運んだことがない。悔やまれる。

 そうやって雑誌『ぴあ』を通じて常に情報を取得し、演劇界全体の変遷を漠然と観察していた中学高校の頃。今だからこそ自白するが、ピーターパンだとかアニー、少年隊のミュージカルなど、文学座に一目置いていたのとは真逆に、あんなものは…と色眼鏡でとらえていたことは事実である。東京ヴォードヴィルショー、円、こまつ座、青年団、オンシアター自由劇場、ブリキの自発団。これらは私にとって本当に懐かしい劇団だ。

 誌面で懐かしいと言えばジァンジァン。渋谷のジァンジァンは、公園通りの山手教会の地下にあった。会場とその独特な演目があまりにもマニアックで固執していて近寄りがたく、大人の雰囲気があり過ぎると判断して、私自身は興味があったにもかかわらず雑誌の上で羨望するに留まった。ちなみにジァンジァンのこの2週間の演目は、次のようになっている。フラメンコ舞踏団による『アンダルシアの閃光』、柳下規夫ダンシングソロの『サロメ―宇崎竜童を踊る』、アキコ・カンダ・ダンス・カンパニー、常田富士男主演の『夕空はれて』、そしてジァンジァン伝説の舞台、毎週金曜夜10時開演の『授業』(ウジェンヌ・イヨネスコ作、出演は中村伸郎氏かと思われる)。商業演劇は広告が掲載されるから知ることができる。しかし、ジァンジァンでやる演目の中でも、特に“ジァンジァン10時劇場”というのは、中学生にとって皆目見当もつかない別世界であり、これ自体が演劇界において奇跡の舞台であることを知るよしもなく、嗅ぎ付けることもできなかった。

 チケットぴあの場合、前売のチケットは電話予約か、最寄りのチケットぴあスポット(非常に出店数が限られていた)に直接行って買うかであり、人気のある公演は前売発売開始当日に電話しても繋がらないことがほとんどで、予約センターに繋がるまで必死に電話を掛け続けるしかなかった。電話は自宅の黒電話より、プッシュ式の公衆電話がいいとか、何処何処の公衆電話が繋がりやすいとか、予約センターは東京なのだから都内から掛けなければダメだとか、電話番号を押した後、すぐに一旦受話器を置いて、もう一度掛け直すと繋がるとか、発売開始の午前10時の5分前から掛け続けた方がいいとか、とにかくそのたぐいの信憑性の乏しい噂を耳にし、そこにある種の電話予約合戦のゲーム感覚が混じり込んでいたことも微笑ましく思い出される。

 演劇が好きだから雑誌『ぴあ』を利用したというより、むしろ『ぴあ』を読み続けたことでどんどん演劇にのめり込んでいった、と言える学生時代。やがて高校時代に劇団善人会議に出会い、劇団員の募集オーディションの資料を送ってもらって、それに自分の氏名を書き込むところまで卒業後の進路に躊躇した。最終的には決断が鈍ってそれを郵送しなかったのだが、総じて、雑誌『ぴあ』は恐ろしい力を持っていたなと、改めて思う。あの頃めまぐるしく演劇をあちこち観たことは、私にとって今でも大きな財産となっている。
 それにしても、ジァンジァンの、中村伸郎氏主演の『授業』は、観たかった。いや観ておくべきであった。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

石内都―Infinity∞

私がトノ・スタノの作品が観たく、『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』が催された東京・銀座の資生堂ギャラリーへ訪れたのは、もう6年も前のこと。それは2010年8月であった(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)。それから今年の夏、『Frida is 石内都展』 を観ようと、同じく資生堂ギャラリーを訪れたのだけれど、ギャラリーの手前まで来て急に、“突発”の用事に襲われ、泣く泣く引き返して地下鉄の銀座駅へ落ちていったのである。つまり、私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかった――。
 石内都という写真家の特徴的な作品を、過去、しばし眺める度に、ある2つの作品を必ず思い出す。  一つは映画である。1966年に公開された勅使河原宏監督の『他人の顔』(原作・脚本は安部公房)。そしてもう一つは、文芸雑誌『群像』の2008年3月号に初めて掲載された、大庭みな子著の短篇小説『痣』。これらには共通項があって、それは《喪失》であったり、《傷》といったモチーフで括ることができるだろう。  『他人の顔』は、顔に大きな《傷》を負った男が、別の男の顔の仮面を秘密裡に拵えさせ、他人になりすまし、自分の妻を誘惑するというストーリー。自分が自分という存在を《喪失》し、仮面をかぶってまったく別の人となった時、《喪失》した自分は、その劣等感の反動であらゆる欲望を満たそうと際限なく暴走してしまう悲劇。  『痣』は、原爆が投下された直後の広島の町にて、無残な顔になった友人の恋人に声をかけられず、戦後、友人に再会しても恋人を見かけたことをとうとう告げることができなかった主人公の懺悔。痣とは、ここでは主人公が精神的に負った《傷》と受け取ることができる。
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 私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかったので、彼女の写真集『石内都 Infinity∞ 身体のゆくえ』(求龍堂)を眺めることにした。この写真集は2009年、群馬県立近代美術館にて催された同題の個展をカタログ化したもので、彼女の80年代後半からの作品が数多く収録されている。
 彼女の作品を眺める時、私はどうしてもそこから、《花の匂い》を感じてしまう。それはまったくの気のせいであろうか。  写真集の中で、「1906 to the skin」(1994年)と「A to A」(2006年)の作品について考えてみ…

大阪万博と音響彫刻のこと

久方ぶりに個人的な“大阪万博”熱が再燃するような、そんな興味深い新聞記事に出合い、そのクラウドファンディングの主旨に賛同し、些かの支援の企てをウェブ上で取り計らった。このネット出資が功を奏するかどうかは現時点では分からない――。しかし、“大阪万博”に対する憧憬と抽象音楽への深い関心の交差は、紛れもなく私自身を一瞬にして突き動かした。このプロジェクトが無事に成功してくれることを祈る以外にない。
 私が突き動かされたのは、朝日新聞朝刊5月27日付茨城版の「再び響け 大阪万博の『音』」という記事である。「音響彫刻修復へ ネットで出資者募る」という副題に刮目し、興味を持った。掻い摘まんで記事の内容を説明すると、1970年の大阪万博で出展されていたフランソワ・バシェ(François Baschet)製作の「音響彫刻」を、茨城県取手市の東京藝術大学ファクトリーセンターが修復・公開することを目的とし、その資金200万円をクラウドファンディングで(6月末まで)募っている――というもの。バシェの「音響彫刻」は17作品あって、過去に修復された5台以外の12台がこれに含まれる(一部寄贈された作品があるらしい)。
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 この「音響彫刻」の修復プロジェクトに関しては、バシェ協会のホームページが詳しい。それとは別に、私自身も独自にこの「音響彫刻」について調べてみた。そもそも“大阪万博”でこのようなオブジェがあったのかということに対し、私はこれまで聞いていたような聞いていなかったような、俄に判然としなかったのだけれども、最近、坂本龍一氏のアルバム『async』の中で過去に修復されたバシェの「音響彫刻」が使用されたことを知り、なんとなく朧気な輪郭が見え始めたのだ。そこではっきりと理解するために、当時の“大阪万博”の公式ガイド本(『日本万国博覧会 公式ガイド』)を開いてみた。
 現代音楽の音楽家・武満徹氏がバシェに依頼して作られた「音響彫刻」は、鉄鋼館で出展された。武満氏は鉄鋼館の芸術監督を担っていた。鉄鋼館は、日本鉄鋼連盟主管のパビリオンで、主立った企業を抜粋すると、八幡製鉄、富士製鉄、日本導管、川崎製鉄、神戸製鋼や大阪製鋼、三菱製鋼、日本ステンレス等々で、その他の組合や協会も連なっている。この公式ガイド本によれば、鉄鋼館は、“世界に誇る音響装置”、“古代ローマのコロシアムを思わせる大ホー…

眠る人―ニュートンの『Pola Woman』

ニュートンと言っても、アイザック・ニュートンのことではない。ベルリン出身の写真家ヘルムート・ニュートン(Helmut Newton)のことである。彼は1950年代後半以降、ファッション雑誌『ヴォーグ』(Vogue)などでセンセーショナルなフォトグラフを発表し続け活躍した。世界の著名なフォトグラファーの一人でもあり、私は彼の作品が好きである。当ブログ「フェティシズムの流儀―『奇妙な本棚』」で伴田良輔氏のエッセイ「残酷な媚薬」の中で論述されていた、彼のポラロイド写真集『Pola Woman』について、ここで紹介することにしたい。
「フェティシズムの流儀―『奇妙な本棚』」の稿で私は、《ニュートンは2004年に不慮の交通事故で亡くなってしまった》と書いた。Wikipediaによれば、場所はハリウッドのシャトー・マーモント。遺灰はベルリンに埋葬とある。シャトー・マーモントと言えば、昨年大ヒットしたアメリカ映画『ラ・ラ・ランド』(デミアン・チャゼル監督)でもロケ地となり、セレブ御用達の華やかなホテルという印象が強い。そこはいかにも、ニュートンの趣味にしっくりくる居心地の良さそうな場所であり、彼にとっては最も生活臭の濃厚な居場所であったけれども、遺灰はベルリンに、という部分に、思わず一瞬、そうなのかとも思ってしまう。ニュートンが最も華やかに活動したパリやモンテカルロ、ニューヨーク、そしてロサンジェルスといった表舞台を遠ざかり、ひっそりとベルリンの街の一角に眠る(眠っている)とは、人と世俗の緊密さにおいて、感慨深い。
 ところで、“リブロポート”という出版社の名前は、私の脳内に強く刻み込まれている。この『Pola Woman』も“リブロポート”出版で1994年刊である。ヘルムート・ニュートンという奇才の写真家の写真集が見たかったらリブロポートは外せない。  90年代前半、まだ私は20代そこそこで、こうした“上品な”写真集を入手するだけの知慮も私費もなかった(渋谷PARCOの“LOGOS”に憧れた)。あくまで噂の範疇でニュートンの写真を空想し、夢想し、専ら、その絵面を思い浮かべては、エレガントなモデル達の優雅なニヒリズムを愉しむ以外になかったのだ。
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 今、ここに『Pola Woman』がある。もしこの写真集を1994年当時眺めることができていたならば、もしかすると私は、その未…