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板橋文夫のピアノ曲「渡良瀬」

 北関東を流れる渡良瀬川についてまず触れておく。

《足尾山地の北西縁と南縁に沿って流れる利根川の支流。全長109キロメートル、流域面積約2,745平方キロメートル。水源は栃木・群馬両県境にある皇海山(2,144メートル)の東ろくにあり、足尾町で多くの支流を集め、南西流して群馬県に入り、花輪(はなわ)の山間盆地をへて大間々で関東平野に出る。これから南東流して足尾山地の南西縁に沿い、桐生・足利・佐野市をへて赤麻(あかま)の遊水池に達し、古河(こが)市をへて栗橋の鉄橋の上流で利根川に合流する。山地の荒廃と急流から直ちに低湿地に流出するため洪水がしばしば起り、古くから有名である。発電所は福岡、大間々などがあるが、いずれも規模は大きくない。なお現在建設省と群馬県の手で多目的の神戸(ごうど)ダムが建設されつつある》
(平凡社『世界大百科事典』1968年初版より引用)

 古い『世界大百科事典』の渡良瀬川についての記述が、ここでは有用であるかと思われる。赤麻の遊水池とは、渡良瀬遊水池のことで、現在は渡良瀬貯水池(谷中湖)を含む。(遊水池は2012年ラムサール条約に登録された)。神戸ダムは1977年に完成した草木ダムを指し、これら遊水池やダムは主に治水目的で建設されたが、明治の足尾鉱毒事件に端を発していることは頭の片隅に置いておかなければならない。

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板橋文夫さんの『わたらせ』
 ジャズ・ピアニスト板橋文夫さんが1981年、日本コロムビアのスタジオにてデジタル録音したアルバム『わたらせ』の収録曲のうち、7分35秒にわたるピアノ・ソロを「渡良瀬」と命名したことの由来について、私は少しも存じ得ていない点を恥じている。それを承知でこれを書こうと思っている。

 以前、佐伯一麦氏の小説『渡良瀬』に出会った(当ブログ「『渡良瀬』とわたし」参照)際に、板橋さんの「渡良瀬」も知った。ちなみにあの小説では、配電盤茨城団地のことが書かれているが、渡良瀬川とは地理的に少し距離がある。ただ、著者の家族が引っ越しのために川の鉄橋を渡り、川を渡りきったことによる運命的な人生の分岐をひどく観念したような話が出てきて、渡良瀬川とはそういう川なのかということをまざまざと感じた。

 板橋文夫さんがピアノ・ソロ「渡良瀬」で表現した渡良瀬は、暗い川ではない。1949年生まれ栃木県の足利出身で、先述した渡良瀬川の古い変遷こそが、彼が見ていたであろう時代の風景だと思われる。

 その渡良瀬川には随分と思い入れがあるのだろう。私も根比べではないが、「渡良瀬」を1週間毎夜聴いた。だから今でもフレーズが耳にこびりついている。実に闊達雄大な曲であり、打鍵の流れるような連打が川の流れを想起させ、中流から下流にかけてめまぐるしく変化する流線を、見事に表している。
 いや、川を完全にイメージしているというより、やはり想いの強さなのだろう。スウィングする左手の和声進行は規則不規則を繰り返して想いの力強さを物語っており、可憐な右手の指捌きは童心に振り返らんとする喜びが感じられる。その鮮やかな全体の曲調がとても印象的で、まるで板橋さん自らが渡良瀬川に憑依したかのような、アニマリズムの萌芽を私は感じ取った気がする。

 私も少年時代に遡れば、渡良瀬川の思い出がいくつかあるのだが、板橋さんの思い入れには叶わない。何かクサクサした時、小学校の3階からは広い堤防によって目視できなかったその奥の渡良瀬の流れが見たくて、放課後に河川敷に飛び出していったことがあった。その場所というのは、渡良瀬川と利根川が合流する一寸手前の渡良瀬川流域だったのだが、冬になると希に渡り鳥が漂着して水遊びをしているところでもある。流れの速さはさほど速いようには見えないものの、川底が深く危険な川だ、絶対に近寄ってはいけない、ということは大人たちによく言われた。当然、夜の河川敷は真っ暗闇に包まれる。ここで何をしていようとも、何が起ころうとも、誰も知らない時間帯が陽が昇るまでずっと続くのだ。私はそれがとても恐ろしいと思っていた。

 そんな流域の渡良瀬と、板橋さんが経験した足利の渡良瀬とは、まったく違った風景であったろう。確かに、あのピアノのような激しく波打つイメージは、私の見た渡良瀬ではない。深く暗いどんよりとした渡良瀬のイメージは、少なくとも私の心の奥でずっと沈殿したままである。

 板橋さんがかつて敢行した、全国縦断101ヶ所「渡良瀬一人旅」ツアーなるものに、思いを馳せる。全国に渡良瀬の闊達雄大さが伝わったに違いない。私は何度も「渡良瀬」を聴き続けるだろう。人々の心を動かす渡良瀬の魅力について、あらためて感じ得たいと思う。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
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 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
 物語(あるいは世界観のようなもの)を大雑把にゆるく説明すると、こういうことになる。ここは広大な砂漠。そこには、国と国を分け隔てる「壁」があり、その「壁」と「壁」との間にある砂漠が、“私たちの国”。果たしてこの「壁」は、いったいいつできたというのだろう。仮国境の外にある“向こう側”、“あっち側”との軋轢によってテロ事件が巻き起こり、「わた…

演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
《神奈川県横浜市の中心的商店街で中区にある。東京の銀座、大阪の心斎橋筋などとならび称せられる繁華街。第二次世界大戦後は焼け残ったおもなビルや周辺一帯が広く米軍用地に接収されて復興が著しく遅れたが、現在では活況をとりもどし、各種デパート、商店、映画館がたち並んでいる。この一帯は江戸時代前期、1659年(万治2)の干拓による吉田新田にあたっているが、開港後港を中心とした関内(かんない)すなわち外人向け商店街として開かれ、明治初年に共同して開発にあたった伊勢屋と佐々木氏の屋号をとって、町名にしたという》 (『世界大百科事典』平凡社・1964年初版より引用)
 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…