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乾板写真―家族の肖像〈1〉

デジタル化した乾板写真①
 確か5年ほど前、伊豆・下田の寝姿山にある蓮杖写真記念館を訪れたことがある。下岡蓮杖は幕末期の商業写真師の祖として知られ、記念館では蓮杖が撮影した写真の他に、当時の貴重な蛇腹写真機や、コダックやペンタックス、ハッセルブラッドなどに代表される歴史的な中判カメラ、ライカで知られるRFモデルなどが展示されていて、観光地巡りのちょっとしたスポットであった。

 おそらくその時、写真乾板という物の具体的な実例が、とても濃厚に私の目に焼き付けられたに違いない。それ以前にも、横溝正史の探偵小説『病院坂の首縊りの家』を読んで、昭和初期の古い写真館の哀愁や、写真乾板のモチーフに私はひどく興味をそそられたことがあったのだが、いま私がとある一組の撮影済み写真乾板を眺め、過去の時代の空想に浸っているのは、そういう経緯で好奇心を掻き立てられ、3年前に写真乾板を入手していたからである。

 そもそも下田から帰ってきた直後の私は、蛇腹式の写真機で実際に自分で乾板写真を撮ってみたくなった。しかしこれが実現には至らなかった。写真機の入手、乾板の入手などの難題な手間。古い写真機と乾板を扱う様々な技術的問題。そうこうしているうちに気分が目減りしていって、結局落ち着いたのは、市場に出回っている撮影済みのガラス乾板を入手することだった。これはかなり簡単に手に入った。

 私が入手した13枚のガラス乾板は、約11センチ×14センチのポストカード判と呼ばれるもので、一つの箱に収められていた。ガラス乾板とガラス乾板の間には、傷がつかぬよう古びた紙が差し込まれていた。入手した3年前、箱から13枚のうちの何枚かを手に取って眺め、これが写真乾板かと感心した。なるほど、ガラスに感光乳剤が塗布されていて、それによって像が印画されている。

 しかし像はネガの状態であるから、すぐにはどんな像が写っているのか分からない。乾板を少し斜めにし、光を反射させると、ネガが反転して本来の肉眼で見えるような明暗で像が浮かび上がる。不思議だ。面白い。ただこの遊びを数分続けて、私はこれらの乾板を箱に戻した。特に興味深い像が写っているわけではなかったから。こうしてこの13枚のガラス乾板は、すっかり用が済まされて、特に貴重品を扱うわけではない場所へ保管された。いや、それは放置であった。

*

 3年が過ぎた――。再びあの13枚の写真乾板を覗いてみたくなった。今度はただ眺めるのではなくて、それらの本来の像をデジタル・データ化しておこうという気になった。

 箱を開けて、乾板と乾板との間に挟まれていた古びた紙をすべて確認してみた。それは何かしらの広告であったり、帳面の切れ端などであったが、挟まれていた紙の広告には、“昭和六年十一月”という文字があった。東京の生命保険会社の広告で、箱に収められたこれらのガラス乾板は、その頃整理されたものと推測できた。

 よく見るとガラス乾板の一部には、その端に“三十七年五月”あるいは“四十年五月”といった撮影年月と思われる文字もあった。これらの文字は、人が直接ガラスに切りつけて書いた文字である。乾板に写っている像からして、これらの写真の撮影年が昭和37年だとか昭和40年であることはあり得ない。1937年1940年と考えても同じで、“昭和六年十一月”の年月と符合しない。無論、1837年ということもない。ということはどうやらこれらのガラス乾板は、明治37年頃、あるいは明治40年頃に撮られたものと考えていいだろう。そう考えるのが妥当である。

 撮影年月は大凡特定されたので、これをデジタルスキャンして、データに起こすことにした。

デジタル化した乾板写真②
 13枚のガラス乾板はネガの状態から推察するに、その持ち主の家の家屋を写した「風景」写真と、持ち主の家族あるいはその関係者の人物が撮られた「肖像」写真とに分類できた。この際、「風景」の方は度外視して、「肖像」写真だけをスキャンすることにし、このうち、重複する人物が写っている乾板は抜きにして、選別された計4枚(4点)をデータ化することにした。

 私がおこなった作業は、まずスキャナーを使って高解像度でダイレクトにスキャンすることであった。これで乾板に印画された像のマザー・ファイルが生成できた。このマザーファイルをPhotoshopで開き、階調の反転及び左右の反転を施した。こうしてネガの状態だった像は、青みがかったポジの状態となり、肉眼と同じ像を見ることができた。

 ただその像はうっすらとしていて状態が悪かったので、露光量を調節し、適正と思われる状態に整えた。さらにこれを黒白処理し、色調をセピアに変換。最後にトリミングを施して、この修整後のファイルを新たに生成した。

 ここに挙げた画像は、そのデジタル・データ化された4点のうちの2つであり、修整後の高解像度ファイルをウェブ用に変換(高画質を保ちつつピクセル数を減らして容量を軽く)したものである。

 画像の全体の雰囲気から、ガラス乾板特有の味わいが感じられる。
 実は修整後の高解像ファイルをズームしてピックアップすると、髪の毛の一本一本までがとても鮮明で、フィルムよりガラス乾板の方が精細であることが分かった。とは言え、実際的には、当時の乾板写真機の機構とそれを取り扱う技術的な部分において、フィルムカメラの扱いやすさにはかなわない。的確な露光性能と彩色性、撮影機構の安定した性能、屋外における撮影の汎用性には遠く及ばない。ガラス乾板写真は今では、一部の専門的な研究分野で扱われているようだ。

 この話は次回へ続く。
 「家族の肖像」という視点で、これらを見ていきたい。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…