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サシャ・ヴァルツの舞踏的世界へ

サシャ・ヴァルツの『Körper』
 私の《演劇》への嗜好の意識は、若い頃の熱意からは考えられぬほど乖離していき、今となっては《演劇》でありながら《演劇》でないもの――に傾注模索しつつある。
 《舞踏》である。私は意識の中で《演劇》を粉々にぶっ壊している。破壊している。破壊して僅かに残りうるもの、それが《舞踏》である。大袈裟に言い切ってしまえば、21世紀は《演劇》の時代ではなく《舞踏》の時代なのだ。

 そうしたかつて記憶にある《演劇》的世界を因数分解し、あるいはもっと積極的に破壊して残った因子、《舞踏》。それは伝統に委ねない自由な舞い。
 反して《演劇》というのは、純粋な世界観念を作りづらい。台詞つまり言葉がそれを疎外するからだ。人と人がそれぞれの成長過程で環境依存し、言語の理論武装化を暗中飛躍するようになると、既に純粋な言語表現は政治的な意味合いを帯びてしまう。
 《演劇》には避けられない特性というのがある。人と人との政治的な物言いの葛藤の集約(多くの悲喜劇は人間の自己顕示欲を誇大化させたものであり、その方面は人間の無残な真の姿を浮かび上がらせる)になるから、《演劇》は純粋な世界観念を語ることができない。
 故に私はそうしたカテゴリーへの興味を失いつつある。敢えてこれを《演劇》への失望とは言いたくないが、そうでないものを追い求めたくなった、というのが本意である。《舞踏》にはまだその可能性を十分に秘めていると思う。

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 もっと簡単に言ってしまえば、すっかり言語の渦でがんじがらめになってしまった《演劇》的世界から逸脱し、背中に羽を生やして、もしかすると人は空を飛べるのではないかという超常現象的な世界観を表してくれるのが、《舞踏》である。

 《舞踏》の中でもここ数年、私の頭の中でどうしてもぬぐい去ることのできない、強烈な感覚的刺激を味わった作品がある。個人的にはどうしてもこの作品(これらの作品)を現代舞踏の重要な一角と定義し、退屈な《演劇》的世界から見事に抜け出してくれたと、その活動に対して賛美したいのだが、ベルリンの女性アーティスト、サシャ・ヴァルツ(Sasha Waltz)とその仲間たちおけるインスタレーション及びダンス公演がそれである。

 ここでは、いわゆるサシャ・ヴァルツの三部作と括られるダンス作品のうちの一つ、『Körper』(2000年)に注目したい。
 公演の会場は、ドイツ・ベルリンにあるシャウビューネという劇場で、コンクリート壁が剥き出しになった半円形の大ホールが舞台だ。

 出演者の男女らはそれなりに舞踊の素地があるのだろうが、サシャ・ヴァルツの公演ではかなりの割合でそれが限定される。まず基本的に男女は裸が記号化され、鑑賞者は人間本来の形=「裸体」が身体表現のプリミティヴな姿としてインプットされる。『Körper』においては男女の性差すらも極力抑制されて表現されるが、サシャ・ヴァルツの他の作品では、それに限らず、男女の性器がある程度露骨に表現されることもある。

 さて、『Körper』で私が最も興味を持ったのが、男女がお互いの身体の肉(皮膚)をつまむパフォーマンスだった。

 それはいまだかつて見たことのない身体表現である。人が人の皮膚をつまんで体を運ぶ、という弄ぶというかゴミ扱いにする経験がない。
 どうもこれは食肉工場を思わせるパフォーマンスだ。背広を着た紳士が、男女の身体の適当な部分の肉をつまんで、ぞんざいに運び出すしぐさ。男女はここでは人間ではなく家畜同然である。ベルトコンベアから流れる肉を捌くかのように、人間が肉をつまみ取られて手荒に扱われる。果たしてこのパフォーマンスの意味とは一体何か。

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 サシャ・ヴァルツは『Körper』を制作するにあたり、2つの場所を通過した、という。ソフィエンゼレンとユダヤ博物館。これらの建築様式や6週間にわたる建物内部での作業(インスタレーションのこと?)を通じて、作品の方向性が変わったという。
 『Körper』のDVDにあるビジュアルもその一つで、きわめて象徴的だ。透明なアクリル板(?)によって作られた巨大な擬似的空間は、人がやっとうごめくことのできる狭い空間となっており、この複数の男女のうごめきは奇抜ながら鑑賞者に何かを訴えかけてくる。アクリル板で顔が変形し、身体を伸ばそうとしたり丸まったり、自由に生きようとする生物の解放性を奪う無言の「苦しみ」の空間でさえある。

 おそらくこれは、ユダヤ博物館の“ヴォイド”と呼ばれる空間を意識したパフォーマンスであると思われるが、先の食肉工場を思わせるシーンやこの狭い空間によるパフォーマンスなど、建物と建築様式からインスパイアされた歴史的経験、人が建物とどう向き合ってきたかということを想起させ、限定的にはすなわちアウシュビッツのような暗い過去を身体表現として精通させた場合、あのようなパフォーマンスになるのではないか、と思うのだ。

 しかもサシャ・ヴァルツによるパフォーマンスは場当たり的即興的なものを嫌っている節がある。しっかりと精確な動きがコントロールされ、秩序を備えたダンスとして形成される。時に愚鈍な即興の仕業によってダンスが、あるいは身体の根源的な意味性が狂わないようそれを極力排除し、入念なリハーサルがおこなわれているのが特徴だ。《体が舞台に立っているとどのような状態で立っていたとしても、他の体や空間との関係で体が何かを物語っている》と彼女はインタビューでも答えている。

 こうしたパフォーマンスを視覚という感覚を通じて脳内にインプットさせていくうち、私は現代舞踏というカテゴリーそのものに嗜好を移したというよりも、サシャ・ヴァルツの表現性そのものに傾注しだしたと結論付けた方が良さそうだ、と思えるようになった。それほど、彼女の表現性は多角的で多元性に富んでいる。

 私が好む「舞台の抽象性」という意味で触れておきたいことがある。

抽象的な舞台装置の『トリスタンとイゾルデ』
 このブログで紹介する機会が多い、(幼年の頃に貪り見た)古い百科事典『原色学習図解百科』(1968年学研)の第9巻[楽しい音楽と鑑賞]には、舞台というものに対して原初の記憶として刻み込まれた写真があった。リヒャルト・ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の抽象的な舞台装置写真がそれである。

 この『トリスタンとイゾルデ』の舞台装置の抽象性が、私の舞台というものに対する嗜好を決定づけた。まず照明によって浮かび上がる空間。背後に階段を備えた不可思議な曲線の黒い壁。人物がベッドの上に座り、黒い服を着た別の人物が背中を向けて立っている。あまりにも神秘的な写真で視線を外すことができず、私はここにありとあらゆる未来の劇の想念を企てて楽しんだ。

 2013年に亡くなった演出家パトリス・シェロー氏が、1976年にバイロイトの劇場でブーレーズの指揮の下、『ニーベルングの指環』を演出した云々の新聞記事を数年前に読んだ私は、すぐさま『トリスタンとイゾルデ』のあの舞台装置写真を思い出した。この記憶の連関は結局、サシャ・ヴァルツのパフォーマンスへと繋がっていく。パトリス・シェローの画期的なハロゲン灯による鉛色の照明演出も、サシャ・ヴァルツと運命的に結びつけられた無機質なシャウビューネの劇場も、同じ一つの抽象性を帯びた舞台背景であり、《空間との関係で》《何かを物語》る新しい《舞踏》のイメージなのである。

 サシャ・ヴァルツの三部作を語る上で欠かせないのがヒエロニムス・ボスの絵画なのだが、長くなってしまったので、この話はまたの機会に譲ろう。

※サシャ・ヴァルツの三部作『S』についてはこちら
※サシャ・ヴァルツ『noBody』はこちら

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
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ファミコンの思い出―プロレス

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