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天正遣欧少年使節―伊東マンショ

東京国立博物館『伊東マンショの肖像』
 己の中でそっとしておけなくなった思い、煩悶、悲しみ。拙くともそれらを言葉にし、じっと受け止めて対話してくれる誰かが今、いて欲しい――。20代の頃、そうしてふらふらと立ち寄った上野の博物館の薄暗い展示室の一隅で、おそらく声をかければ自分と対話してくれるであろう20代の青年を見つけた。緑衣の青年。しかし私は、その青年に声がかけられなかった。最もひ弱で勇気のない、意志のもどかしさ。同じ経路を辿った青年はいつしか姿を消し、最後のチャンスは失われていった――。(当ブログ「不思議な少年の話」参照)。

 昨年より待望していた上野・東京国立博物館の特別公開『新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像』。その伊東マンショの肖像画を眺める時、過去のそんな20代のひ弱な光景――館内を静かにまわっていた緑衣の青年――を私は何故だか思い出した。きっと、ドメニコ・ティントレットが描いたその、若き伊東マンショの柔和な瞳が、緑衣の青年の和らいだ印象を想起させるのだろう。私がこの東博の特別公開を楽しみにしていた理由の一つは、そうした過去の光景を同じ場所で追体験できるのではないかという期待があったからである。

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 1581年(天正9年)、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは織田信長や豊後の大友宗麟らと面会し、キリスト教のさらなる布教のため、その資金援助を取り付けるべく、ヨーロッパに少年使節を送ることを計画した。

 この時代の九州のキリシタンについて、以前私は司馬遼太郎著[街道をゆく]シリーズの『島原・天草の諸道』(朝日文芸文庫)で読んだことがある。しかし少年使節に関しては、そこではごく簡単な一節にとどめられている。
《天正十年(1582年)、九州の諸大名がローマ法王に対して派遣した四人の少年使節が、八年余をへてもどってきたのである。かれらは、活版印刷機をもちかえった》
(司馬遼太郎著[街道をゆく]17『島原・天草の諸道』より引用)

伊東マンショの肖像画(東博リーフレットより)
 東博の本館7室で展示されていたのは、先述した「伊東マンショの肖像」画(ミラノ・トリヴルツィオ財団蔵)のほか、1585年に北イタリアのレッジオで出版された「天正遣欧使節記」(東京国立博物館蔵)、2点の三聖人像画、江戸時代に宣教師シドッチが携行していた聖母像で、このうちの「天正遣欧使節記」が、当時のヨーロッパの活版印刷技術を示しており、活字本としての体裁は現代の印刷書籍と比べても、さほど見劣りしない。

 活版印刷は当時、文字の複製技術を高いレベルにまで持ち上げた。司馬氏は先の著書で少年使節の話を膨らまさず、何より活版印刷機について刮目した。中国式の版木による印刷機は古くから伝えられているが、グーテンベルクが発明した活版印刷機、つまり銅活字の印刷技術が少年使節によって持ち帰られたことについて、《驚歎すべきこと》と表している。このことに関連するのだが、司馬氏は同シリーズ『肥前の諸街道』の中で、カトリックという宗教が、禁教されずに日本にずっと世界の普遍的なものを絶えず注入し続けていてくれていたならば、情報感覚のない太平洋戦争のようなたぐいは、なかったかも知れない、というようなことを述べている。

 秀吉が激怒したとされるサン・フェリペ号事件が起こったのは1596年で、キリスト教の伝道を禁じた1587年の禁教令から9年後のことだ。その間、1590年には旅から帰国したマンショらが、長崎より瀬戸内を海航して下関、室津、大坂を巡り、翌年に京都の秀吉と謁見。旅先で献上された品々や西洋の楽器演奏を披露し、秀吉を喜ばせた。しかし、サン・フェリペ号事件以降、キリスト教弾圧は苛烈となる。鎖国体制をしいた徳川幕府時代のキリシタン弾圧では、キリシタンがもたらした諸処の技術や文化を喪失した。

 それによって日本という国家は、文明開化という局面があったにせよ、司馬氏の言う“普遍的なもの”から逆行していくことになる。太平洋戦争のような悲劇は、そうした世界的感覚の欠如によって生じた不幸であると言っていい。

 キリシタン大名の名代として選ばれた少年ら、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4人は1582年(天正10年)、長崎を出航する。実はここからの旅が壮絶であった。ポルトガルのリスボンに到着したのは2年後の1584年である。スペイン国王フェリペ2世に謁見。その後ローマへ。翌年にローマ法王グレゴリオ13世と謁見。ヴェネチアなどイタリアの都市を周り、帰国すべくリスボンを出航したのはさらに翌年の1586年。2年後にマカオに到着。そうして1590年にようやく、長崎へ辿り着く。幾度にも襲われた病気との闘いの旅。課せられた使節という重圧。少年らは青年へと成長したが、なんと8年にも及ぶ壮大な旅であった。

 持ち帰られた活版印刷機が布教活動を推進したことは言うまでもない。が、国内での激しいキリシタン弾圧によって彼らの運命は大きく狂わされていく。マンショは1612年(慶長17年)、43歳で長崎にて死去する。その後、原マルティノはマカオに追放され、中浦ジュリアンは長崎で処刑される。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
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 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
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演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…