スキップしてメイン コンテンツに移動

福島菊次郎がリブをとらえて

【福島菊次郎の写真集『リブとふうてん』】
 何気なくチェストの引き出しを引いたら、古い本が出てきた。社会派カメラマン・福島菊次郎の写真集『戦後の若者たち Part II リブとふうてん』(三一書房・1981年初版)である。何故こんな本がここにあるのかと一瞬面食らった。これを買った時のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。購入履歴を調べたら、2006年となっていた。10年前に自分が何を思ってこれを入手したのかやはり憶えていないが、いま新鮮な気持ちでこの写真集をくまなく眺めていくと、これが昭和の時代をずっしりと背負った重たい、とてつもない写真集であることが分かってきた。

 『戦後の若者たち Part II リブとふうてん』は“リブ”と“ふうてん”に分かれている。二部構成になっていて、第I部は「幻覚の街から」、第II部は「ウーマンリブの蜂起」。どちらも福島氏が1960年代後半から70年代にかけて撮影したものと思われる。ここでは、後者の“リブ”に関する写真に触れてみたい。
 まずこの写真集は、幸いにも福島氏自らの解説文がそれぞれのテーマ毎に添えられており、諸処のカットの解題として役立つ。そこから、何故福島氏がこのような写真を撮ることになったかの経緯が透けて見えてくる。この補助によって写真のディテールがよりはっきりとしてくるのだが、第II部「ウーマンリブの蜂起」は、1971年8月、長野県飯山市の山村で開かれた「第一回全国リブ大会」が主な被写体である。

 ウーマン・リブ――。
 私は1980年代の小学生の頃、午後枠で再放送された日本テレビ系列のテレビドラマ『おれは男だ!』(森田健作、早瀬久美主演)を観て、“ウーマン・リブ”という言葉を初めて知ったように思う。ちなみに『おれは男だ!』は、私が生まれる前の、1971年から72年にかけて放送されたテレビドラマであった。
 何やら女子高校生らが集団になって強気に、森田健作演じる主人公(小林弘二)に詰め寄るシーンが多かった、と記憶する。その集団女子の中心人物が早瀬久美演じる吉川操で、いつも二人はけんか腰だった印象がある。
 小学生だった私はそういうシーンを見ても、なかなか“ウーマン・リブ”の意味合いが掴めなかったのだが、とにかく女子たちが男たちに負けず、強く生きようとしていたのではないか、ということは感じられた。そこでてっきり“ウーマン・リブ”とは、“Woman Live”の略だと思い込んだのだ。ずいぶん垢抜けたネーミングの運動だなと、私は勝手に信じ込んだのである。

 ――これは今でもはっきり憶えていることなのだけれど、卒業した中学校では、“…らしく”しなさい、と常に先生たちから言われていた。あくまで個人に対してではなく、生徒全体に生活指導的な内容で、学校の外では特に中学生“らしい”身なりでとか、中学生“らしい”態度で、などと先生たちは口にした。こちらも表面ではそれに納得するのだが、内心、“らしさ”とはなんだろうと、判然としない部分もあった。
 むしろ大人たちは自分たちを“らしさ”という人格と顔のない記号に当てはめてとらえたく、そうすることで便宜上教育しやすいと考えているのではないか。個々の人格性のはみ出た面を認めず削り取ってしまえば、指導が楽である。例えば男子生徒の頭髪の丸刈り強制や、女子の長髪の場合の編んで束ねることを強要するといった校則はその最たるもので、個々の個性と人格形成への自由な思考が剥奪され、軍隊式に一律化された生徒らは3年間、大人が捏造した中学生“らしさ”の枠に押し込まれてしまっていた――。

 そう振り返ると『おれは男だ!』のドラマは、確かに若者の、生きたドラマであった。あのドラマを一言で片付けてしまえば、テレビ向けにアレンジされた学園青春群像劇に違いない。が、いわゆるスポ根ドラマとは一線を画していたように思う(あのドラマを単に剣道のスポ根ドラマと勘違いしている人が多くいるのではないか)。ドラマの底辺に流れていたのは根性や忍耐云々ではなくて、まさしくウーマン・リブ、すなわち《女性解放》であったし、その先の男女の生き方、拘わり方が命題化された、エポック・メイキングであったのだ。

*

開放的なリブの女性たち
 恥ずかしながら私にとっても“Woman Live”が勘違いであったことを、今ようやく気づいた。調べて繙けば、1960年代後半のアメリカの、女性公民権運動に端を発した“Women's Liberation”の運動が“ウーマン・リブ”の語源であると、講談社の『日録20世紀』[1970 昭和45年]を読んで理解した。
 アメリカの女性公民権運動のうねりが最高潮を迎え、ついに1970年8月26日、ニューヨークの五番街で大規模なウーマン・リブのデモがおこなわれた(この日、全米の主要都市でおよそ10万人の女性がデモに参加したという)。活動を指導したベティ・フリーダンや『性の政治学』の著者ケイト・ミレットが活動史の中心的人物であり、日本でもその影響が波及し、1971年の長野県飯山市のリブ大会=リブ合宿へと連鎖していく。日本におけるリブ活動のリーダーであった活動家・田中美津については、やはり福島菊次郎の写真集『戦後の若者たち Part II リブとふうてん』の方が詳しい。

 しかしながら、“大正生れの僕”“中年男”と自らを少々侮蔑した福島氏が、《“女の立場”に立って物事を考えたことはほとんどなかった》として、そのリブ合宿に適度ににじり寄ってとらえた写真の数々が、実に生々しかった。第II部「ウーマンリブの蜂起」のことである。
 中でも、男子禁制とされた合宿の周縁から、ススキの繁茂する村道の「裸になった女性達」をとらえた開放的風景は、時代や文化のパラダイムを飛び越えた、優雅なる大傑作であると言えよう。私は思った。もしかすると、源氏物語に出てくるような平安貴族の女性たちは、日頃こんなふうに自由闊達な一面があったのではないか。

活発だったウーマン・リブのデモ
 リブ合宿以外では、「父権制社会打倒」「なくせ性差別」「中絶禁止法反対」といったスローガンの旗や首に提げられたプラカードが目立つ街頭デモ行進の写真。中には女性がエプロン姿で、そこに「政府は女(の?)子宮に口出しするな!」と書かれてあって思わず唸ってしまった。そんな過激な文句に福島氏も目を留めてシャッターを切ったのではないか。
 ところで、先述したアメリカの大規模デモでも、その要求内容の一つとして、「妊娠中絶をおこなう施設の建設」が含まれている。
 福島氏はこの写真集の中で、ある種のアンチテーゼを残した。それはリブの女性達に対してではなく、社会全体に対しての痛烈な批判と思われるのだが、ある女性患者の中絶手術写真がそれである。

福島菊次郎が中絶手術の現場をとらえた
 妊娠4ヵ月の患者の子宮から取り出された、真っ赤な血と肉の塊。この本の巻頭にそのカラー写真が掲載されていた。見事なくらいに真っ赤な、塊である。妊娠4ヵ月なのだから体長5センチになっているはずの胎児は、子宮の中で粉々に砕かれてその痕跡さえ見いだせなかった、と福島氏は書く。私にもそれは見えない。胎児はどこにも見えない。出産における喜びの現場とは真逆の、暗鬱とした死の始末の現場であることに、福島氏は嘆く。明らかに胎児は殺されたのだと。

 《女性解放》を掲げたウーマン・リブの同胞は、こうした現実の直視(というより、《女性解放》を掲げた時から常に傍らにある現実)によって、それが単なる《解放》論では済まされない別の問題への審議を余儀なくされた。無論これは人としての倫理の問題であり、《女性解放》にすり替えてはならない問題である。

 福島菊次郎は、戦後日本のこうしたあらゆる社会問題に直面し、それと向き合って、写真を撮り続けた。リブ運動の女性たちを活写したそれらには、生身の人間の憤怒と喜び、そして愛が充満していて、私は自らの身体の昂揚を抑えることができなかった。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
*
 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
*
 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…