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サブ・カルチャー雑誌『ビックリハウス』のこと

伝説の雑誌『ビックリハウス』1976年1月号
 物心ついた頃に、日曜日になると、地元のK書店に通っていた光景が目に浮かんだ。大方、自分の行動癖は変わらない。自転車を書店の目の前に止め、店頭に並んだ小学館の雑誌「小学○年生」や「めばえ」が視界に入り、店内に踏み入る。1階は一般雑誌系、児童書、単行本、文庫本、奥には文房具の売り場があり、レジを取り囲んだショーケースには、気品漂う万年筆が鎮座していた。2階は専門書、学習参考書、漫画本の売り場である。
 本は買ったり買わなかったり。腹が空くと、K書店の右隣の、薄汚いやつれたショッピングセンターの1階にあるハンバーガー・ショップでハンバーガーとコーラを注文し、さて同じ階のゲームセンターへ行くか、道路の向かいにあるホビー専門店に駆け込んで“くるくるてれび”か“くるくるびでお”をいじるか、他の書店に移動するかを悩ましく思案したりする。日曜の午後というのは、女の子がチャラチャラしたファンシー文具(やたらキラキラしたシャーペンやシール、いい香りのする消しゴムのたぐい)に群がって誰がどの子の真似をするかを生活コーディネートするのを街中で見かけながら過ごす、あながち悪くない時間帯なのであった。

 その頃、私にとってK書店は広い宇宙であった。世の中を知るための、自分の趣味を広げるための、とてつもなく大きな知的空間であった。
 そこに、奇妙な雑誌がいつも寝そべっているのを、私は欠かさず目視していた。目視して素通りするのが常だ。最初は、いったい何の雑誌なのか分からない。『ビックリハウス』――。意味不明なタイトル。しかし、なんとなく面白そうな雰囲気の、しかも大人の雑誌である。
 束の間の好奇心に駆られて、一度だけ手に取ってページをめくってみたことがある。大人がおそらく面白がるような写真やイラストのコラージュ。なんだか訳の分からないコラム。あとは文字、文字、文字。小学生の私は、大人の雑誌を咄嗟に開いてしまった罪悪感と羞恥心でその一瞬、ついに限界に達し、素早く本を閉じてその場を去ることしかできなかった。

 決して自分は悪いことなんかしていない!だが、顔を赤らめた私の身体はなかなか興奮が冷めない。他の本を読む気分にもなれない。あれを開かなければよかったと、ひどく後悔した。
 そうしてK書店へ来るたびに、奇妙な雑誌『ビックリハウス』がそこにあることを目視しつつも、白々と素通りして他の本へありつくのが日課のようになり、やがて中学生の頃には、K書店からその雑誌はいつの間にか消えていた。――あれはいったい何だったのだろう。私はまだ心も体も大人ではなかった。あの広い宇宙の一点の、邪悪なブラックホールのような存在をじっくり探査することができなかった。それは自身の中で咀嚼されぬまま忘れられていった、遙かな時代の記憶である。

*

謎のイタリア映画『すべての道はローマへ』
 21世紀になってあの雑誌を読むことになるとは思わなかった。突然ではない、人間として当たり前のように、私はそれなりの時間をかけて、心も体も大人になってしまった。いま手元にある『ビックリハウス』は1976年の1月号であるから、私がK書店にひとりで通い始める以前に発刊された号、ということになる。出版社はパルコ出版である。
 この号のいちばん後ろには、まだ10代か20代の初々しい浅田美代子さんがモデルの、“爽快無敵”チェスタという得体の知れぬジュースの広告がある。よく読むと“逃がさないで青春”ともあった。若気の至りでしか飲めないジュースであろう。ともかく、浅田さんがこんなに若いということは、ああその頃なんだと思った。76年といえば私はまだ若輩の、4歳の成りかけに過ぎない頃だ。

 『ビックリハウス』は、いわゆる(これも渋谷系と括っていいのか)サブ・カルチャーの月刊雑誌であった。この号はナンセンス度が薄いものの、映画や演劇、文学、世相や風俗のエキスを絡めた、読者投稿欄満載のギャグ雑誌とも言える。

 この号の主要な企画モノの一つ、「特集ドーロショー」。古今東西の映画の中から、選りすぐりの“道路”映画を紹介している。映画評論家・小森和子さんのコラムもあったりするのだが、驚くべきことに、“本誌独占スクープ!”としてカルロ・ポンティ製作のイタリア映画『すべての道はローマへ』を取り上げている。確かに“道路”映画だ。《あらゆる歴史を秘めたローマへ 時代を超えて若者たちの夢はつのる! 激しい歴史の流れと、永遠の愛の中で 華麗にくりひろげられる一大交響詩!》。

 なんとイタリア映画監督の巨匠ら4人(フランチェスコ・ロージ、フランコ・ゼフィレッリ、ルキノ・ヴィスコンティ、フェデリコ・フェリーニ)がオムニバス形式で綴った今世紀(20世紀)最後の超大作(超大作超幻想映画!)という触れ込みで紹介している。カルロ・ポンティ製作の映画『カサンドラ・クロス』は私の好きな映画で、同年に公開されているのだけれど、『すべての道はローマへ』はまったく知らない。同名のジェラール・フィリップ主演の映画(監督はジャン・ボワイエ)とは違うようである。どうも眉唾なスクープの匂いがする記事だ。

「第1回エンピツ賞」発表
 そのほか、別の企画モノとしては、「ビックリハウス 第1回エンピツ賞」の発表というのがあった。どんな規定で募集したのか分からないが、読者投稿によるショート・エッセイを競った、独自の文学賞なのだろう。いやいや、中には俳句やテクストのコラージュ一発芸的なものもあって計り知れない。シュールとユーモアとナンセンスとサスペンス?が濃厚に混ぜ合わされた、サブ・カルチャーの機知が感じられる。ちなみに、受賞作「しづこちゃん」はのちの作家、窪田僚さんの作品らしい。

 こうして私は、あの頃決して読むことができなかった雑誌『ビックリハウス』をいま貪り読んでいる。古びた本のすえた、鼻につくヴィンテージな香りを愉しみながら。チャラチャラしたファンシー文具を思い出しながら。
 決して、猥雑ではない。良識ある中の悪戯さ加減が、あの時代の若者文化の昂揚と遊戯の密度を示し、絶妙な文芸タイポグラフィーを構築している。しばらく私はこれに、はまり続けるに違いない。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…