スキップしてメイン コンテンツに移動

浅川マキの歌

浅川マキ『浅川マキの世界』
 1976年1月号の『ビックリハウス』については、前回書いた(「サブ・カルチャー雑誌『ビックリハウス』のこと」)。私はここで、その号の一般投稿者による、あるエッセイを全文、以下に書き記しておこうと思う。
 それは、歌手・浅川マキに関するエッセイである。――しごく私は気に入ってしまった。何度も読み返しているうちに、紫煙を燻らす浅川マキが容易にイメージできるし、私はこれと同じ文面をどこかの機会で既に読んでいたのではないか…何かそれは初めて出会ったのではない感触のある、心にじわりと響くエッセイなのであった。
 あらためて詳しく書いておく。これは、『ビックリハウス』(パルコ出版)1976年1月号の、「フルハウス」という投稿ページに寄せた、(当時)国府台高校3年18歳、永田裕之さんのエッセイである。タイトルは「マキについての断片 または『極私的浅川マキ論』」。

雑誌『ビックリハウス』での投稿ページ
《僕が、浅川マキを聴くようになったのは、たしか中3の終わり頃だったと思う。あのころの僕は、教師の何かと言うと勉強勉強、異常なまでの受験指導等に嫌気がさし、それでいて現実には受験せざるを得ないというジレンマみたいなものがあって、なにか世の中を斜めに見るような(今でもそうなんだけれど)中学生だった。

 淋しさには名前がない
 ……誰が言ったの
 何にも いらない
 これからは
 ドアを開けたら 朝の光が
 また ひとりよ 私

「マキについての断片 または『極私的浅川マキ論』」
 なんて言う歌があって、そんな詩がマキのハスキーでそれでいて各小節の終わりのところが、ピョッと上がるような声で歌われるともう理論もクソもありゃしない。ただただ、歌のイメージに浸りこみ、そのイメージをレコードの中のマキ自身に勝手に投影して、精神的オナニズムの世界に漂よいながら生きてきた。

 つまり、結局なんだかんだと言っても進学校と言われる高校に入ってしまった僕にとって、浅川マキの世界というのは、常に逃避場であった訳なんだ。それにマスコミやレコードやコンサートを通じて感じるマキのイメージも、その弱虫な僕の要求を満すような黒一色(でも黒というのは、色では無く光の無い状態、つまり闇の中でいくらでもイメージなんかふくらむのだけど)を通してきた。

 いつもは、マキのことなんか、ごく近しい友人に、しかもアルコールでも入っていなければ話さないのだけれど、こんな風に有名な雑誌『ビックリハウス』に書く気になったのは、僕自身が最近変わってきてしまったのではないかと思うからだ。

 自分自身でもよく分からないし、多少うろたえているのだけれど、あれ程心にしみたマキの歌が、精神的安定剤としての役割を果たさなくなっている。何故なんだろう、マキは変わっていない、9月14日の野音のステージもすばらしかったし、彼女が山下洋輔と組もうがロックの連中と共演しようが、浅川マキは断固として浅川マキであり、その歌は、ブルース以外のなにものでもないのだけれども……。

 マキのあの世界が僕から離れていってしまうのは、とても淋しくまたオーバーに言えば心の寄り所を失ったような気がする。
 でも、マキに出会った3年前とちょうど同じような状況にいる今の僕は、高校受験とは比較にならない程醜い大学受験戦争の中で、反発を感じながらも流されていきそうな自分の、マキに変わる新しい心の逃避場を模索しているような気がする。

 お前は かつて荒れ狂う河の
 激流に身ぶるいしただろうか
 そそぐように降る雨の中
 旅をした事が あっただろうか
 旅をした事が あっただろうか》
(『ビックリハウス』1976年1月号より引用)

 「フルハウス」は、若者の自由な意見を募集した投稿ページである。「マキについての断片 または『極私的浅川マキ論』」は(それがフィクションでない限り)永田さん自らの、思春期における浅川マキとの出会い、その彼女の歌に心酔した内容が書かれており、さらにはその浅川マキの歌に対しての、自分の心の変化の吐露、すなわちそれを心の逃避場としていた自分自身が、大学受験の中で渇き切ってしまうことを感じた、苦い経験の最中の哀歌なのである。

*

 折しも、今年は田中角栄逮捕のロッキード事件からちょうど40年を迎え、メディアの方々でこの事件の経緯や真相に迫る話題が錯綜した。あの事件は1976年2月、アメリカの公聴会から発覚し、やがて田中角栄逮捕へと連動していく政治汚職スキャンダルである。およそその事件で日本中が大騒動となる直前に、永田さんはまさしく極私的な浅川マキ論を展開したことになる。彼の心が徐々に渇き切っていったことと、多くの若者たちの気持ちと、あの時代の社会の姿、あるいは世の中の大人たちへの不信感といったものが、まったく別個のかけ離れたものであるとは、私にはとても思えないのだ。

 そうしていま、私は繰り返し繰り返し、浅川マキを聴く。《淋しさには名前がない……誰が言ったの》の「淋しさには名前がない」(作詞・作曲浅川マキ)を何度もかける。雨の降る夜のしじま、アルバム『浅川マキの世界』に収録された、東京・新宿にかつて存在したアンダーグラウンド蠍座でのライヴ録音を聴き、その世界にどっぷりと浸ってみる。集っていたのは確かに若者たちであったのだろうか。歌い終わったマキへの、場内の乾いた拍手が耳に強く残った。スタジオ録音とはまったく別の彼女の孤独な歌声が、長く脳裏に反映した。

 永田さんの浅川マキ論が、何やらのりうつってくるような気がして、少し怖くなった。それほど、マキの歌声が濃密であり、胸を、心臓を突いてくる。
 彼の思いの丈があまりにもストレートで、その影響をまともにかぶったせいなのだろうか。暗く静かな歌声と、聴き耳を立てて研ぎ澄まされた蠍座の空間の、流れる空気の“無音”でさえも、私にはドキリとした心の戸惑いがあるのである。浅川マキはもうこの世にいない。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
*
 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
*
 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…