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ドビュッシーのClair de lune

クラシック・レコード集「名曲鑑賞レコード」
 どんどんと子供の頃や学生時代の記憶が薄らいでいくような気がして、気が気でない。したがって憶えていることはどんどんと積極的に地道に書き留めていくしかない。書き留めておいたことが、後々の邂逅譚の補助となる(そうでなければ完全に忘れてしまう)。この自らの行動は、できるだけ純粋なしぐさとなるよう常々留意しつつ、まったく思いもよらぬ記憶の発見を惹起すると信じている。

 私が所有する古い百科事典のクラシック・レコード集「名曲鑑賞レコード」(EP盤全6枚、全30曲)については、当ブログ「『ラ・カンパネラの原風景』」で触れたのでここでは割愛するが、今年の秋、フランスのピアニスト、パスカル・ロジェが来日するというニュースを見聞して少々驚いた。

 パスカル・ロジェのドビュッシーは、20代の頃よく聴いた。――これにも多少記憶違いが発生していて、それ以前、つまり中学生の頃からパスカル・ロジェのCDを持参していたのではないかと思い込んでいたのだが、どうもそうではないらしい。それはポリドールの“LONDON BEST 100”シリーズのNo.74であり、どうやら高校卒業後に買ったようなのだ(信じられないことに、中学校から高校を卒業するまで、この曲を客観的に聴くことさえできなかった)――。

 ともあれ、今、再びドビュッシーへの個人的な思い入れが沸き立って、淡い記憶が甦ってくる。そもそも幼年時代に「名曲鑑賞レコード」で鑑賞した、ベルガマスク組曲の「月の光」(Clair de lune)が、私にとってドビュッシーの曲との最初の出会いだったのだ。

*

 あまりにもその記憶が遠くなりつつあるので、過去に書き残した記録からそれを思い出していく作業が必要となった。12年前、私は山形県の山寺を訪れた時、ドビュッシーの「月の光」を携えた。そのことは、当ブログ「山寺 Piano Rhapsody」に記している。もはや忘れかけた「月の光」にまつわる少年時代の思い出が、そこには綴られていた。
《その時私は、悲愴な夢を見た。棺に眠った友が、月の光に照らされながら天に昇っていく光景を。私はその棺を見上げ、小さな一点になって消えるまで、友を思ったのである。その時、すべてを見定めるようにして流れていた曲が、ドビュッシーの「月の光」であった。
 おぞましく超現実的な夢でありながら、そこには美のかたちが確かにあった。召されていくのは、友ではない。私自身なのだ、と》

 それはとても美しい夢だったのだと思う。小学生だった私が日頃、「月の光」をレコードで聴いていて、ある夜、そんな夢を見てしまった。地上から天空へ、青く照らされた夜のしじまに棺がゆっくりと昇っていく様――。
 おそらく私は翌日、友に駆け寄ったに違いない。Y君だ。Y君が死んでしまった夢を見たのだ。込み上げてくるのは、悲しさから愛おしさへ移行した愛慕である。Y君が本当に死んでしまったら、どれほど悲しいだろうかと。いま目の前で笑顔を見せて生きているY君が、こんなに愛おしい存在と思ったことはなかった。この時の「月の光」の曲がもたらした心理的影響は、私にとって不安な気持ちと幸福の気持ちとを複雑に絡ませた、尋常でない次元のものであった。
《ドビュッシーの「月の光」は、私にとってそれはもう音楽ではなく、もっと切実な何か――体内の細胞と共鳴するミトコンドリアのようなもの――》。

 さて、その時頭を駆け巡っていた「月の光」は、いったいどのようなものであったのだろうか。「名曲鑑賞レコード」の中の「月の光」をもう一度聴いてみたくなった。「山寺 Piano Rhapsody」で次のように書いている。
《当時、EP盤のレコードで聴いた「月の光」は、ピアノソロではなく、ストリングス・アレンジの演奏だった。レコード盤の無数の傷によるノイズが激しく、例えばストリングスの瑞々しく繊細であるはずのハーモニーは、どこか奥まったところに押し込まれているようで窮屈に感じられた。それは、後にデジタルサウンドで聴く同曲とは似ても似つかない、まるで疾患のあるメランコリックなサウンドだったのだ》

 2年前に入手した同じ「名曲鑑賞レコード」のレコードの状態は頗る良好で、ほとんど傷がない。子供の頃に聴いていたノイズだらけの「月の光」ではない真っさらな「月の光」が聴けるとは、幸運である。私は初めて、この良好なレコードで、あの“棺が天に昇っていく”かつての「月の光」を聴くことができた。
 出だしのメロディは木管であった。弦楽四重奏ではなくて、木管の重奏から弦の重奏が加わる管弦楽である。全体としてはゆるやかで荘厳な印象で、やはりこれを聴くと、“棺が天に昇っていく”光景が浮かんできてしまう。

 レーベルを確認してみると、“石丸寛編曲指揮 シンフォニエッタ管弦楽団”とある。
 指揮者・石丸寛氏は、芸術全般に造詣が深く、墨田区の音楽都市づくりにも尽力した人で、毎年2月、東京・両国国技館で催される第九コンサート(国技館すみだ第九を歌う会)の企画と運営に携わったことで有名だ。亡くなられる1998年までの間、そのコンサートではたびたび指揮をとっていたという。今年、パスカル・ロジェが公演をおこなうすみだトリフォニーホールも、石丸氏が礎を築いた墨田区の音楽都市づくりの一環でできたコンサートホールであり、この因果な結び目にドビュッシーが絡んでいることが不思議だ。

 個人的にクラシック音楽の中では最も聴いてきたドビュッシー。各レーベルの全集を買い揃えて、それぞれのアーティストの聴き比べをするのも楽しく、何よりドビュッシーの深々とした和声の展開に酔いしれることが多い。
 そのうちのレコード、私が最初に聴いた石丸氏編曲の「月の光」は、ピアノソロではない管弦楽であったことに、それなりの意義があった、と思わざるを得ない。何故なら、少年時代に私が経験したあらゆる情緒の隅々に、この石丸氏編曲の「月の光」に感化されたものが紛れ込んでいたことを、認めないわけにはいかないからである。私にとってかくも意味深な曲が、ドビュッシーのClair de luneなのだ。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…