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西暦と和暦の話

9月21日付読売新聞朝刊より
 近頃、片付け仕事が追いつかず、やっておかなければならないことが1ヵ月も2ヵ月もずれ込んでしまい、慌てふためく。当然、季節感もずれてしまう。私にとってはまだ暑い“夏”であって欲しい。ああ、時間を止めることができたら、どんなに便利だろうと思う。

 少々大袈裟な話だけれど、私にとって時間とは、一生のうちに、つまり死ぬまでの間に何が出来るかの刻印なのである。そういう意味では10代の学生時代、やるべきことをやらず(その時何をやるべきかも分からなかったけれど)、大量の時間を無駄にしてきたような気がして、そのツケがいま、自分自身に大きく降りかかっているのではないかと強迫観念に駆られる。したがって片付け仕事では、常に時間との勝負。作業自体を時間に換算して、これをやるにはどれだけ時間を要するか、いつそれをやればよいか、もっと合理的に時間を短縮して出来る方法はないか、などといった具合に時間的概念にうずもれて囚われることが多い。

 そうした時間的概念に囚われているせいか、あれはいつやったのだろうかと、正確な月日まで割り出しておきたい衝動もあったりする。
 昭和生まれの私にとって昭和元号での和暦は、比較的時間変遷を認識しやすい。昭和47年に生まれて、昭和54年は7歳。昭和63年は16歳で高校1年。翌年の1月8日に平成元年となり、高校2年が平成の始まりだということは認識できている。しかし、平成になってからは元号への関心が薄れ、例えば平成14年は自分が何歳で何があったかと訊かれても、すぐに答えることができない。平成になってからの元号では、自分の時間的概念がほとんど機能しないのだ。これは個人的な感覚の問題であろうが、平成という年号は完全に疎くなっており、それ以降は西暦でないと物事を思い出すことができなくなってしまっているのである。

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 9月21日付の読売新聞朝刊で興味深い記事があった。笠谷和比古氏の「歴史の年月日 正確な表記を」。歴史本やムック本などで、和暦の月日に西暦をくっつけた間違った表記があって改善を促したいという話。

 そもそも西暦とはなんぞや、とはっきりしなかったので調べてみた。
《西洋の暦法。イエス‐キリストが誕生したとされる年を一年目として年を数え、それ以前は「紀元前」としてさかのぼって数える。また、その暦法によるこよみ。現在、世界の公用紀元として用いられている。西暦。西暦紀元は五二五年にローマの修道士ディオニシウス・エクシグウス(Dionysius Exiguus)(四九七頃‐五五〇)が創設した。実際には、キリストの生誕は数年早いと見られている》
(小学館『日本国語大事典』より引用)

 笠谷氏によれば和暦と西暦では日付がずれるのだという。分かり易い例が示されていたので引用するが、例えば関ヶ原合戦の和暦は「慶長5年9月15日」。これを正確な西暦で表記をするならば、「1600年10月21日」が正しい。しかしこれを間違って「1600年9月15日」としてはならない、ということ。西暦の年に和暦の月日をくっつけた“擬似西暦”というのが横行しているらしい。
 笠谷氏が指摘した例では、鳥羽・伏見の戦いの擬似西暦「1868年1月3日」が王政復古の宣言の正しい西暦「1868年1月3日」と同じ日になってしまい、正しい表記の本と間違った表記の本を行き来してしまうと、混乱をきたす恐れがある。なるほど、歴史本などの表記はすべて正しいと思いがちだったのだが、こうした擬似西暦といった間違いの表記が存在するのだということを知った。
 こうした混乱を避けるため、関ヶ原合戦であれば「慶長5(1600)年9月15日」、王政復古ならば「慶応3(1868)年12月9日」というように表記するのが適切だとしている。ちなみに私が試しに調べてみた、とある歴史本では、西暦表記を前提としていて、年表の中で一部、西暦年と和暦での月を合わせてしまっていて間違った表記を見つけた。

 では、権威ある『広辞苑』(岩波書店)ではどのような表記になっているか確認してみたところ、王政復古「一八六八年一月三日(慶応三年一二月九日)」とまったく正しい表記になっていて安心した。これから歴史年月日の表記については、調べる側も十分注意して読み取ろう、と思った次第である。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
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 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
 物語(あるいは世界観のようなもの)を大雑把にゆるく説明すると、こういうことになる。ここは広大な砂漠。そこには、国と国を分け隔てる「壁」があり、その「壁」と「壁」との間にある砂漠が、“私たちの国”。果たしてこの「壁」は、いったいいつできたというのだろう。仮国境の外にある“向こう側”、“あっち側”との軋轢によってテロ事件が巻き起こり、「わた…

演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
《神奈川県横浜市の中心的商店街で中区にある。東京の銀座、大阪の心斎橋筋などとならび称せられる繁華街。第二次世界大戦後は焼け残ったおもなビルや周辺一帯が広く米軍用地に接収されて復興が著しく遅れたが、現在では活況をとりもどし、各種デパート、商店、映画館がたち並んでいる。この一帯は江戸時代前期、1659年(万治2)の干拓による吉田新田にあたっているが、開港後港を中心とした関内(かんない)すなわち外人向け商店街として開かれ、明治初年に共同して開発にあたった伊勢屋と佐々木氏の屋号をとって、町名にしたという》 (『世界大百科事典』平凡社・1964年初版より引用)
 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…