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ゴジラというポリティカル・レガシー

1954年版『ゴジラ』DVD
 去る8月28日、朝日新聞朝刊にゴジラが現れた。編集委員・曽我豪の「日曜に想う」の「ゴジラと保守 破壊と創造」の記事である。その頃熱狂的な評判となっていた映画『シン・ゴジラ』にあやかっての、ゴジラがテーマとなった日曜版コラムだ。
 とは言え、それを読んでみると、初代ゴジラの映画が引き合いに出された、政治の、55年体制に絡んだ論説であり、映画の特撮の話にはなっていない。しかしこれはこれで興味深く、初代ゴジラが公開された1954年(昭和29年)の吉田内閣の話から、造船疑獄の影響による総辞職、保守合同、左派と右派の社会党統一などといった戦後政治史の流れを汲んでいる。現今の政治のおける要諦も、時代を正しく読み取り、確かな采配が求められていることに変わりない、と結んでいて大変読み応えがあった。

 私が子供の頃にテレビの放映で観ていたゴジラ映画は、『メカゴジラの逆襲』(公開は1975年)の印象しかない。もっと古い、ザ・ピーナッツの“モスラの歌”で有名な『モスラ対ゴジラ』(1964年)などはあまり知らず、第16作目にあたる1984年の『ゴジラ』(橋本幸治監督)で初めてゴジラ映画を映画館で観た。特撮モノが好きだった私はむしろゴジラ映画には疎く、子供の頃にメカゴジラの超合金のオモチャを親に買ってもらったくらいでゴジラとはあまり縁がなく、ゴジラより大映のガメラ、ガメラより大魔神の方が映画としては好んで観ていた。

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8月28日付朝日新聞朝刊より
 1954年の初代ゴジラ――『ゴジラ』(東宝作品・本多猪四郎監督)はかなり後になってテレビ放映だったかビデオ・レンタルだったかで観た気がする。モノクロームでおどろおどろしい。それまで“特撮の子供向け大怪獣映画”としか印象がなかったゴジラ映画だったが、初代ゴジラの映画を観てこれは違うと思った。特撮の大怪獣映画の仮面を装った、完全なる政治風刺映画であった。

 いま考えるとそれは、とてつもないエネルギーと熱意で制作された映画だと分かる。
 1954年の3月、アメリカのビキニ環礁水爆実験で、マグロ漁船第五福竜丸の乗組員23人が死の灰を浴び被爆する。ゴジラという空想怪獣の映画は、この現実に起きた事件に端を発し、そこから「水爆実験によって海底から目覚めた古代怪獣」というモチーフが生まれ、同じ年に完成して11月3日には封切りになっている。いかに急ピッチで制作されたか。
 しかもこの間、9月26日、旧国鉄の青函連絡船洞爺丸が、台風直撃によって座礁転覆。1,155人の死者行方不明者を出した海難事故が起きている。映画『ゴジラ』では、相次ぐ謎の海難事故からストーリーが展開され、洞爺丸の事故のイメージがぴたりと重なる。

 映画『ゴジラ』は全編にわたって、破壊の画が続く。破壊の映画である。水爆実験によって巨大な古代怪獣が甦り、地上に上がって都市を壊滅的に破壊する。走る電車を握り潰し、銀座和光の時計台ビルを叩き壊し、国会議事堂を全身で破壊する。テレビ鉄塔で中継するアナウンサーが絶叫し、鉄塔がなぎ倒されるシーンは特に、背筋が凍るような恐怖を感じる。
 防衛隊のような組織が登場して、大がかりな作戦でたびたび守備攻撃を試みるが、ゴジラはいっこうに引き下がらない。そこで、「オキシジェン・デストロイヤー」という化学物質による兵器が究極的に使用される。これは海の生物が窒息死してしまうという恐るべき兵器だ。この「オキシジェン・デストロイヤー」こそ、人間が作り出した水爆に匹敵する兵器であり、その使用の是非で苦悩した発明者の博士は、ゴジラとともに海底で命を絶つ。実に悲劇的な終焉である。

 怪獣退治という解決が、真の解決になっていない。むしろ社会に新たな悲劇の火種を生むという現実。それは国家と国民に対する核兵器根絶への進歩的な投げかけであると同時に、核の平和利用ならやむを得ないという原子力政策への許容的メッセージとも受け取られかねず、この初代ゴジラの映画作品は、そこのところが嘆かわしい。しかしながら、当時の東西冷戦構造のはざまで日本が抱えていた政治的問題、あるいは社会的問題を明確に、見事に浮き上がらせた傑作であると言える。

 破壊と創造とは、芸術の世界では美しさを伴うものだが、政治における破壊と創造は、あらゆる副作用をはらんだ《難しい未来》の「可能性」を示唆している。私は『ゴジラ』の映画を観てあらためてそう思った。ゴジラという象徴は、《難しい未来》がやってくることの象徴でもある、ということだ。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…