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『洋酒天国』と活動屋放談

『洋酒天国』第56号
 三日三晩、ジョルジ・シフラが演奏するリストのピアノ曲「リゴレット・パラフレーズ」を聴いているのだけれど、記憶がない。導入部の演奏からいつも記憶が飛んでいる。スコッチのオールド・パー12年物のせいだ。これを飲んで音楽を聴くと、瞬く間に瞼がとろんとしてプレーヤーの電源が付いたまま朝を迎える。オールド・パーは好きだし、これがまた部類なく心地良いのだが、いっこうにシフラの「リゴレット・パラフレーズ」は謎のままで、私はあの曲を、優しい夜のしじまに語ることができない。

 『洋酒天国』(洋酒天国社)第56号は昭和38年1月発行。映画特集号となっている。昭和38年と言えば、鉄腕アトムが始まり、力道山逝去、アメリカのケネディ大統領暗殺、梓みちよさんの「こんにちは赤ちゃん」が大流行した年であり、レナウンのニット商品のヒットと共に“ワンサカ娘”のコマーシャル・ソングが流行りだしたのは、確かこの頃ではなかったか。
 ちなみに映画の話に絡めると、この年の暮れに、私の大好きなサスペンス映画、スタンリー・ドーネン監督の『シャレード』が公開されている。主演はケーリー・グラント、そしてヘップバーン。おそらく私はこの映画を、テレビ朝日系列の「日曜洋画劇場」(解説は淀川長治)で初めて観たのだと思う。「日曜洋画劇場」(当初は「土曜洋画劇場」)が始まったのは昭和41年からで、子供の頃すなわち昭和50年代頃、この日曜洋画劇場のスポンサーだったレナウンのコマーシャルで、“ワンサカ娘”の歌を覚えた。

 たまには検索ワードのために、“サントリー”のPR誌『洋酒天国』と記しておかなければならない、と気を遣ってみる。
 第56号の裏表紙は壽屋「赤玉ポートワイン」のおしゃれな広告。壽屋は現在のサントリー。Suntory。サントリーホールディングス。又は燦鳥。これだけワードを並べておけばよかろう。それにしても当時の「赤玉ポートワイン」のコピーがまた甘ったるい。

《野菊の如き君におくってください 甘い生活が始まります 土曜の夜と日曜の朝にはこれです 唇によだれです 赤玉ポートワイン!》《おくりものに 赤・白詰合せ(グラス付き)500円》

 野菊の如き君とは。唇によだれ、とは…。日本の国旗の日の丸を見て赤玉ポートワインを思い浮かべ、急に赤玉が飲みたくなれば、あなたは立派な赤玉通。今宵は赤玉に決まり。キャビネットに3本か4本、ストックしておきたい。現行は赤玉スイートワイン。

*

裏表紙は壽屋赤玉ポートワインの広告
 さて、映画特集号である。A5判で分厚い第56号。この号は作家・山川方夫氏の編集ということで、マニアの間ではどうも垂涎の的らしい。そんなようなことが、小玉武著『「洋酒天国」とその時代』(ちくま文庫)で書かれてある。
 そのヨーテンのA5判についてだが、どうやら社内でも評判が悪かったらしく、第57号から元のB6判に戻ったのだという。確かにそれ以前の小気味よさがこの分厚いA5判の内容では感じられず、トリスバーでトリスを片手にニヤニヤしながらヨーテンを読む、というわけにはいかない。酒の肴本の良さが小型のカラー刷のB6判にはあって、少なくともこの映画特集号にはそれがないのだ。しかし、映画に関したエッセイの数々は名品が揃っており、別枠として伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」も掲載されているのだから、蒐集家がじんじん唸るのも頷ける。
 あまりに映画にまつわるエッセイが豊作なため、一つ二つこの号の内容を摘まみ取っても全体をお伝えすることができないのが残念である。映画のエッセイの付録的な役割として、大正13年から昭和37年までの「内外映画作品編年ベスト10総目録」などもあって非常に重宝する。

 私の個人的な観点から、この号の映画に関する部分をチョイスする。渾太防五郎著「活動屋放談」。
 いきなり、昔の撮影所なんてヤクザなんだ、という話から始まって思わず瞼が痙攣してしまう。まさに放談。それは撮影所はヤクザ的人達の寄り集まりという意味なのか、本当にヤクザの寄り集まりだったのか、俄に解読しづらい。ともかく昔の撮影所の役者やスタッフに対する重役らの対応が破天荒だったらしく、特に俳優たちへの最初の2年間の大盤振る舞い、すなわち着る物や身につける物やその他諸々の賄いは、会社にツケ、が許されたという。いい物を身につけて態度や振る舞いのステータスを上げ、大役をこなせるだけの立派な俳優に仕立て上げる2年というリミット。一人前の俳優になると、ツケは禁止になるのだとも。昔の撮影所のシステムには、そういう風習があったようだ。

 時代が無声映画からトーキーに変わって、そのトーキーの良さはテレビによって初めて分かった、とも渾太防氏は述べている。映画の画面に圧倒されるから、音の善し悪しなんていうものが観客には分からない。ただ、テレビというのは画面が貧しいから、音に敏感になる。テレビによって初めて大衆が音の善し悪しに気づき、トーキー映画の音の何たるかが分かってきた、という話。

 加えてこれを最後に書いておきたい。この号の別のエッセイで、ジョン・オハラの「フレッド・アステア」考がある。1930年代のアメリカ。フレッド・アステアが自動車会社スポンサーのある人気ラジオ番組に出演した。音楽と共にフレッド・アステアが踊る。しかしラジオだから、彼の踊りを見ることはできない。聴くのである。アメリカ国民の聴衆は、フレッド・アステアの“足音”をラジオのスピーカーから聴いて、踊りを“見た”のである。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
§
 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
 物語(あるいは世界観のようなもの)を大雑把にゆるく説明すると、こういうことになる。ここは広大な砂漠。そこには、国と国を分け隔てる「壁」があり、その「壁」と「壁」との間にある砂漠が、“私たちの国”。果たしてこの「壁」は、いったいいつできたというのだろう。仮国境の外にある“向こう側”、“あっち側”との軋轢によってテロ事件が巻き起こり、「わた…

演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
《神奈川県横浜市の中心的商店街で中区にある。東京の銀座、大阪の心斎橋筋などとならび称せられる繁華街。第二次世界大戦後は焼け残ったおもなビルや周辺一帯が広く米軍用地に接収されて復興が著しく遅れたが、現在では活況をとりもどし、各種デパート、商店、映画館がたち並んでいる。この一帯は江戸時代前期、1659年(万治2)の干拓による吉田新田にあたっているが、開港後港を中心とした関内(かんない)すなわち外人向け商店街として開かれ、明治初年に共同して開発にあたった伊勢屋と佐々木氏の屋号をとって、町名にしたという》 (『世界大百科事典』平凡社・1964年初版より引用)
 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…