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ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈前編〉

岡本舞子「ナツオの恋人ナツコ」のシングル・レコード
 とりとめもなく、昔のアイドルの音楽の話をしたい。少しミステリアスな部分もあって、個人的には頭の片隅に残って妄想が妄想を呼び、消えることがなかったのだけれど――。

 そもそもこの話を最初に書こうと思ったのは、数年前のことだ。ただその時は、どうしても書けなかった。理由は、話の中心となる肝心なレコードが、自宅に残っているのか否かの“家宅捜査”で手間取ってしまったためだ。
 このことに触れるのに、数年も経過してしまった。しかし今、ようやくこれを書くことができる。つまりは、かつて所有していたはずのそのアイドルのレコードが、“家宅捜査”の結果、ついに見つかったのである。何を隠そう、そのレコードとは、1986年発売の7インチ・シングル・レコード、岡本舞子の「ナツオの恋人ナツコ」(ビクター音楽産業)である。
 このことは別に、私が当時のアイドルだった岡本舞子のファンだった、というたぐいの話ではない。それから「ナツオの恋人ナツコ」の曲の話をするのでもない。結論を先に書くと、そのシングルのB面の、「ファッシネイション」の話をしたいのである。この曲が何故か、とびきり格好良かった、のである。ちょっとびっくりするくらいに、本当に、異常なくらいに――。

§

 その話をする前に、まず私がこのレコードに出合った経緯について、書いておこうと思う。
 あれは日本テレビ系列の番組、「うるとら7:00」(うるとらセブン・オクロック)であった。あの番組を憶えている人は少ないかも知れない。土曜日の朝の情報番組で、時代は1986年に遡る。
 もはや遠い記憶の彼方にあったため、この番組のタイトルの正確な表記及び番組内容等は、ウィキペディアの助けが必要だった。そう、確かに声に出せば、“うるとらセブン・オクロック”なのだが、表記すると「うるとら7:00」である。そんな番組名でウルトラセブンなんかが出ていたのかい、と思う方もいるかと思うが、冗談ではなく本当に、ごく希にウルトラセブンが出ていた…と記憶する。しかし基本的には情報バラエティなので、ウルトラセブンとは直接関係ない。モロボシダンやアンヌは登場しなかったと思う(ウルトラマンの隊員だった二瓶正也氏は出たことがあるらしい)。

 1986年と言えば、私がまだ中学2年生だった。
 少しずつ記憶がよみがえる――。怠惰に満ちていた中学2年の土曜の朝、眠いまなこを擦って黒い制服に着替え、テーブルに座ってテレビを付ける。4チャンネル。トースターで焼いたパンに大好きなマーガリンをたっぷりと塗り、それを頬張りながら、毎週欠かさず観ていたのが「うるとら7:00」だ(ちなみに当時の私の頭は、丸坊主だった。丸坊主だから、朝の髪のトリートメントはとても楽であった。何もしない)。
 司会はコント赤信号の3人。言わずと知れた渡辺正行さん、ラサール石井さん、小宮孝泰さん。当然、まだ若かった。ウィキペディアの情報によれば、岡本舞子はその時、司会のアシスタント・パーソンだったらしい。そのあたりのことは、まるで記憶にない。ただしウィキペディアには、彼女は「1987年3月で降板」とも書いてある。ここはウィキペディアのデータを鵜呑みにしておこう。

 ともかく、その番組に岡本舞子というアイドル・タレントが出ていた。「うるとら7:00」は、多くのアーティストのプロモーション・ビデオを流していた。ちょうど学校へ行く前の時間としては、ちょっとした音楽情報をかじるのに都合が良く、小気味よい番組であった。岡本舞子はおそらく若々しい、高いトーンの声だったような気がするが、自身のプロモーション・ビデオか、あるいはスタジオでの収録か何かで、「ナツオの恋人ナツコ」の曲を聴いたのだ。どんな思いを抱いたか定かではない。が、それなりに擦り込まれたのだと思う。私はショップへ駆け込み、彼女のレコードを買った。

 ざっくばらんに言えば、A面の「ナツオの恋人ナツコ」は普通のアイドルの歌であった。当時それを聴きまくったのかも知れないが、さほど好きな曲というわけではなかった。ただしサビが効いているので覚えやすい。シングルの選曲としてはベターだとは思えた。
 一方、B面の「ファッシネイション」を聴いて、即座に、これはA面とはまるで路線が違って格好いい、と思った。私の身体の反応がまるで違ったのだ。リズムがいい。メロディもいい。おしゃれだ。すぐに「ファッシネイション」が好きになった。作詩は松井五郎、作曲と編曲は山川恵津子――。

§

ジャケット内側の差し込みフォト。岡本舞子
 さらにその話をする前に、このシングル・レコードのジャケットが、少し奇妙というか謎なのである。そのことに触れておきたい。

 ジャケットの写真。スニーカーを履きジーンズ姿の岡本舞子の左耳をよく見ると、明らかに“カリフラワー・イヤー”っぽい。
 “カリフラワー・イヤー”とは何か。柔道やレスリング、その他組み系の格闘技のトレーニングで、マットに耳が擦れ変形して硬くなった耳を指す。このことから、彼女も何か格闘技をやっているのでは、と思った。
 ところが、ジャケットを開いた内側の差し込み写真(同じスニーカーに同じジーンズ姿)を見ると、彼女の顔がややふっくらとしていて、あれっ?と思う。別人、とまでは思わないけれど、精悍だったジャケットの彼女とは顔つきが違って見える。こちらはなんとなくまだあどけなさが残り、ぽっちゃりしている。それぞれ撮影の時期が違い、彼女の体型も違うのだろうか。
 もっと驚いてしまったのは、ジャケットの彼女の左耳にあった、“カリフラワー・イヤー”だ。あれが、内側の差し込み写真の左耳には見られないのだ。少なくともその形状がごく僅かに留まっている。“カリフラワー・イヤー”とは言えない。
 これはちょっと驚きである。私は当時、「ファッシネイション」の曲に感動しつつも、こちらの写真の謎めいた秘密に心を奪われてしまい、思春期の煩悶の相当量を費やした感さえあった。無論、このことは誰にも語らずにいた。番組の中で、このことに触れた会話はなかったはずだ。ジャケットの彼女の顔つきがまるで違うこと。“カリフラワー・イヤー”があったりなかったりの、謎…。

 私が立てた仮説は、こうであった。
 差し込み写真の方は、撮影時期が前だったこと。どれだけ前か分からないが、ジャケットの写真の撮影時期より数ヶ月前ではないかということ。その間、彼女は体型的にスリム化し、何か格闘技をやって耳も“カリフラワー”状態になってしまった。というより、格闘技をやったから体型がスリム化したのではないか、ということ。
 最初に撮った時の写真では、アイドルとして少し物足りない、イメージとして評判はあまりよくないだろうと判断したプロデューサーが、「おまえ、これじゃダメだから、ダイエットしてこい!」と彼女に伝えた。アイドルとして売れたい、短期間で痩せたいと必死になった岡本舞子は、事務所の承諾を得て、何故か格闘技をやり始めた。ダイエット目的でやり始めた格闘技だったが、けっこうそれにハマってしまい夢中になりすぎ、いつの間にかグラウンドの技術がめっぽううまくなってしまった。…わたしもしかして、アイドルよりこっちに向いてる?…
 気がつくと、耳にはアイドルとして絶対に相応しくない“カリフラワー”が出来ていた。怒ったのはプロデューサーだった。「アイドルがカリフラワーになってどうすんだバカヤロウ」。
 まあしかし、いいでしょう。スリム化して雰囲気が精悍になりましたよ。撮影を再開したら、案の定こちらのカットの方が良かったです、よござんした。一件落着。
 発売したシングル・レコードを見て、プロデューサーが激怒した。「なんでぽっちゃりのNGまで載せたんだバカヤロウ」。そうなのだ。何故、まだ精悍さに欠ける、ぽっちゃり岡本舞子を掲載してしまったのだろうか。

 私の立てた仮説は、こうしてここで行き詰まってしまった。納得がいかない。奇妙である。あれはつまり写真の妙で、実はなんてことはない同じ撮影日であり、片方のカットの顔が光の兼ね合いでぽっちゃりに見えるだけなのだ、と普通に考えてみた。しかしそうなると、耳の形状がまるで違う理由が分からなくなる。同じ日に撮影して、数分あるいは数時間で耳がああなるわけがないだろう。どんなジムだ。どんなグラウンドのトレーニングだ。いやいやいや…もしかしてこれ、双子の姉妹?
 双子の姉妹?
 双子の姉妹?
 双子の姉妹?
 グラウンドが得意な妹。
 ぽっちゃりの姉。

 謎はいまだ、私の中で解明されていないのである(これが解明すれば、ノーベル賞ものだと私は勝手に思っている)。この謎にまつわる本人のコメントか何かが、どこかのメディアだとか出版物にあるのだろうか。もう30年も前の古いことだ。ネット上の情報を掻き集め、その謎を解く鍵を探し回る余力だとかアドバンテージだとか岡本舞子に対する熱い思いが、私にはない(どなたか教えてください!とだけはここに書いておきたい)。

 次回、後編はそそくさと本題の「ファッシネイション」に移りたい。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
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