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ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈後編〉

岡本舞子「ナツオの恋人ナツコ」のB面が「ファッシネイション」
 岡本舞子に関する〈前編〉の続きである。こちらは「ファッシネイション」の曲に集中して書いてみたい。彼女のプロフィールにも少し触れておかなければならないだろう。

 80年代のアイドル・岡本舞子は、東京出身の1970年生まれ。1985年、ビクター音楽産業より「愛って林檎ですか」でレコード・デビュー。「第4回メガロポリス歌謡祭」優秀新人エメラルド賞、「第18回新宿音楽祭」銀賞、「第16回日本歌謡大賞」新人賞など数々の音楽賞を受賞し、華々しいアイドル時代を謳歌した。
 私が中学2年生で観ていたテレビ番組「うるとら7:00」、そしてそこでプッシュ・プロモートされた「ナツオの恋人ナツコ」のシングル・レコードを買ったのは、その翌年の1986年のことである。ウィキペディアによると、さらにその翌年の87年に松竹の映画『舞妓物語』(監督は皆元洋之助)に出演するが、秋に引退。わずか3年のアイドル時代であった。
 蛇足になるが、1984年の日テレ系のアニメ『魔法の妖精ペルシャ』は当時、私は小学6年生でよく観ていた。金曜日の夕方枠で心地良いアニメ・タイムでもあった。このアニメ『魔法の妖精ペルシャ』のオープニング曲「見知らぬ国のトリッパー」を岡本舞子が歌っていたとは、いま初めて知った。私にとって懐かしい、子供時代の郷愁をそそられる歌であるが、「見知らぬ国のトリッパー」は岡本舞子のデビュー前のシングルだったようで、何と彼女はまだ14歳であった。

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 そんな順当な、実力派アイドルの道を駆け出した岡本舞子が、作曲家・山川恵津子とタッグを組み、そのコンテンポラリーな数々のナンバーに支えられていた背景を知るには、「ファッシネイション」を聴けば充分である。ギターのリフとパーカッションのカウベルでイントロが始まり、当時はまだ斬新であったタイトなリズム・マシンによる軽快なリズム、ドスの効いたシンセ・ベース、エレピ、シンセ・ブラス、その他シンセサイザーによって加えられた装飾的ないくつかのサウンドのディレイ・モーション。
 推測するに、これらはFairlight CMI(当時のコンピューター・マシーンによるサンプラー&シンセサイザー。非常に高価な電子楽器だった)のサウンドではないかと私は思った。であるならば、実力派アイドルと実力派アレンジャーによる、相当な制作費をかけた大プロジェクトだったことが想像できる。

 この7インチのレコードのレーベルには、当時大流行した“DIGITAL REMIX”(デジタル・リミックス)のロゴが記されている。記された“DIGITAL REMIX”の意味を明らかにすることはなかなか難しいが、アメリカ・ロサンゼルスのスタジオで録音されたというこの曲には、山川恵津子の作曲とアレンジをよりアグレッシブに具現化した種子の、優秀なブレーンが潜んでいると思われる。このシングル・レコードには一切記されていないスタジオのレコーディング・ミキサー、アシスタント、そしてもしこれが本当にFairlight CMIであるならば、そのマニピュレーターの存在である。

 “DIGITAL REMIX”とは、本来、デジタル・ミキサーによってリ・ミキシングされたことを指し、音源がアナログであればデジタルに変換されてリ・ミキシングがおこなわれる。最初からロスでレコーディングがおこなわれている場合は、そのままデジタル・ミキサーでミキシングをすれば“DIGITAL REMIX”とは言わない。あくまでリミックスとは一度ミキシングされたものをもう一度ミキシングすることであるから、考えられるのは、日本のスタジオである程度レコーディングがおこなわれ、日本でミキシングされたマルチ・テープをロスのスタジオに持っていき、デジタル・ミキサーで新たなサウンドを付け加えたりなどして編曲に手を加え、もう一度ミキシングした、ということである。つまりその作業の多くは、ロスのスタジオにてFairlight CMIのサウンドに差し替えた、ということが考えられるのだ。

 当時、レコーディング・スタジオ(あるいはミキシング・スタジオ)における電源まわりなどはロスが優秀であるという、きわめて断定的な“神話”があった。
 電源の質(電圧、機器の電子部品や電線)によって音が変わるということは実際問題としてあるのだが、比較的都内のスタジオは電源まわりの質が時間帯の推移によって悪くなり、悪評であった。簡単に言えば、夕刻を過ぎると一斉にスタジオ周辺の電気量が増えノイズが乗っかる。これがレコーディング時の音質を悪くする。だからレコーディングは夕刻前で終わらせるか、深夜に集中しておこなう、といったぐあい。
 そういう理由もあって、レコーディングはいっそのことアメリカやヨーロッパで、というスタイルが流行した。海外のスタジオには独特なサウンドを繰り出すヴィンテージな機器やマイクロフォンがストックされており、日本のスタジオにはそれが数少なかった理由もある。
 端的に、向こうのスタジオで録れば音が良くなる、ということだが、阿漕なファッション感覚で“このアルバムはロス録音”という触れ込みを表し、宣伝目的のためだけに利用した場合もあっただろう。バブル前だから、そういうことが横行したことは充分考えられる。しかし、「ファッシネイション」は決してそうではなく、純粋に“DIGITAL REMIX”の意義があったと思われ、そのサウンドからは、大ヒットシンセサイザーYAMAHA DX-7あたりのアレンジだけでは超えることができない特別なグルーヴが感じられる。

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 ところで、80年代の山川恵津子を知るファンにとって、恐ろしくレアな逸品、レア盤と言えば、ギタリスト・鳴海寛とのユニット名、“東北新幹線”のアルバム『THRU TRAFFIC』であろう(これを書いている時点で私はこのアルバムの一部しか聴いていない)。
 『THRU TRAFFIC』の入手は決して困難ではないと思うが、あまりにレアすぎて高値で取引されていたりする(いずれ再販されれば別だが)。そのアルバムとは別だが、山川恵津子の作曲では、谷山浩子の「カントリーガール」などは耳あたりのよいメロディで耳に残っている。
 つまり、山川恵津子の名を出せば、「ファッシネイション」がカッコイイのは当然、ということに帰着する。しかしそこには、“DIGITAL REMIX”の効果によるサウンドの差し替え的マジックがあったことを私は推理し、作詞者・作曲者のみならず、音楽は幾人かによる影の存在のブレーンとスタッフによって作られているのだということをここに表明したかった。

 80年代のアイドル、岡本舞子という存在は、そうした曲々にさらなる偶像美としての輪郭と色彩のテンションを上げ、大衆を惹きつけ、音楽がビジネスになり得ることを証明した。「ファッシネイション」はその奇跡のアイコンなのである。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…