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『洋酒天国』と温泉お風呂の話〈1〉

【『洋酒天国』第57号】
 今宵はヨーテン、洋酒天国。
 平素何事にも驚かず、世界の良からぬ事態にそわそわした素振りを見せない21世紀忠誠型タイプの学生、政治家、大富豪でも、昭和のこの“奇作・珍品・珍芸術”には唖然とするであろう。今宵はヨーテン、「温泉」&「風呂」大特集である。
 昭和38年5月発行の『洋酒天国』(洋酒天国社)第57号は、たっぷりと充実していてどれもこれも面白い。お伝えしたい内容を取捨選択してコンパクトにまとめるのが非常に難しいので、今回も2回に分けて紹介することにする。
 表紙は見ての通り、木目調の家具。ではなく、銭湯の脱衣所にある鍵付き脱衣箱。おそらくこの鍵に括り付けてある白色の“輪っか”は、ゴム製であろう。今ではヘアゴムのようなものが使われるが、この表紙にある“輪っか”は使い古しているせいか貧相で少し薄汚く見える。ともあれ、これを腕に通して鍵を無くさない仕組みが、日本の銭湯の気の利いた文化なのだ(と日本を訪れる外国人向けに書いてみた)。表紙で目立っているのは何と言っても、微妙に開いた扉に掛けられた、真紅のブラジャー(国産のブラジャーかどうかは分からない)。この女体から外されたブラジャーこそ、日本人殿方数千万人が共通して抱く、プチ妄想画である。
 ちなみに裏表紙は、脱衣箱の扉に掛けられた、殿方の腰からするりと外されたであろう、“赤褌”、ではない。颯爽として気品のあるサントリーの白札である。

【グラビア「船橋ヘルスセンター」】
 第57号の「温泉」&「風呂」大特集では、写真・田沼武能、文・村上兵衛による「船橋ヘルスセンター」のルポルタージュが白眉だろう。
 船橋ヘルスセンターは昭和30年11月に千葉県船橋市でオープンした巨大総合レジャーランドである。それこそ伝説、いや都市伝説ともなった夢の施設であった。太平洋の海に面した12万坪の敷地に、1万坪もある大小合わせて20の温泉施設。それ以外ではプール、ゴルフ場、ボウリング場、遊園地、遊技場、劇場などありとあらゆる娯楽施設を併合し、1日にのべ5万人弱の家族客やカップル、団体客が訪れていたという。三木鶏郎が作詞作曲したテレビ・コマーシャル・ソング「長生きチョンパ」はあまりにも有名である。

 高度経済成長期に突入した昭和30年代あたりから、働き盛りの人達が「家族サービス」(ご奉公)をする、その最も手堅く確実に喜んでもらえた手段が「旅行」であり、「温泉」であったと思われる。できうるなら、働いている自分自身へのご褒美もしたい。日本人はとにかく湯が好きだ。温泉が好きだ。船橋ヘルスセンターはそんな希望を関東圏に実現させてくれた。
 とは言え、残念ながら私は、船橋ヘルスセンターを訪れたことがない。昭和52年5月に閉園したこのレジャーランドをもし訪れたとなると、5歳にも満たない幼児の頃ということになる。が、あいにく実現しなかった。
 しかしなんとなくその頃、船橋ヘルスセンターの名前や噂は、耳にしていたかも知れない。今で言えば東京ディズニーランドのような、遊園地を超えた夢のレジャーランドが千葉にあるという些細な井戸端会議を、大人の会話から聞き取っていた可能性はなくはない。だから私はなんとなく、この在りし日の船橋ヘルスセンターに興味を持っていたのだけれど、ヨーテン第57号のルポでその全貌らしきものがようやく分かったような気がした。大方それは、自身の想像通りであった。

§

【のど自慢、喧嘩、股引親父、豪奢な舞台設備】
 結局、昭和45年の大阪万博のあの大フィーバーぶりを、スーパー銭湯版として置き換えてみれば想像しやすいのだ。ルポを読むと、当時船橋ヘルスセンターの入館料は150円で、子供料金は80円。館内の生ビールの値段が一杯100円とあるから、さほど高い入館料ではなかった。しかし、これだけの複合的な施設であれば、あちらこちらで金を使い、ほとんどの客が所持金を多く散財することは自明であり、そういうふうに知らず知らず財布の紐が緩む仕掛けが、方々にわんさかと用意されていたに違いない。
 何と言っても圧巻なのは、掲載写真にある、大広間でぐでんぐでんとなったおとっつぁんらの丸投げの、寝姿である。テーブルには空になったビール瓶、飲みかけの角瓶。その他飲み食いした後始末の悪いゴミがめっぽう散乱し、こんな背広姿で来るんじゃなかったと、当然酒を帯びて疲労困憊となってくりかえしつぶやく夢物語を――この後起きたら絶対、座布団とゴワゴワの背広のせいで背中や首をひどく痛くする――見ているのだろう。

【これぞ船橋ヘルスセンター的光景!】
 思わず笑ってしまえる写真ではある。が、笑ってもいられない。笑えない。これはいわゆる、「家族サービス」の成れの果てなのだから。サービスを果たし終えて満足する自分の心と、疲れ切った身体のどうしようもない痛みと苦しみとの合流が、この寝姿の真実だ。家族のため、あるいはもっと無味乾燥な思念――稼いで少しばかり豊かになった我が家の、束の間の優雅の象徴――のため、とは言いながら、現実には思いがけず散財した挙げ句、極楽気分を味わったであろうはずの湯の温かみでさえも忘却して、気がつけばゴミに埋もれた疲弊の肉の塊だけが、そこに横たわっている。これを無残と言わず何と称すか。無残やな、日本人。

 ところで編集発行人の開高健氏は、この年昭和38年の7月に発行された雑誌『週刊朝日』より、「日本人の遊び場」というルポを連載し始めている。今号で取り上げられている「船橋ヘルスセンター」のグラビア記事は、それに先駆けたもの、あるいは何らかの着想を得たものと思われるが、これを書いている時点ではまだそちらの随筆作品を読んでいないので、はっきりとしたことは言えない。いずれにしても、開高氏のこの頃の作家的嗅覚の一つが、まさに“日本人の遊び場”であったことの傍証ともなって、このヨーテンで素晴らしき「温泉」、素晴らしき「風呂」天国、といったような日本人独特の癒やし文化がテーマに挙がっていることは、その時代の少し見えづらい文化的ダイナミズムの移り変わりが感じ取れよう。
 湯と風呂に対して、ある種の古い観念だとか風習がまだ蔓延っていた時代の、その旧態依然とした面白さが、ヨーテン第57号によく表れている。次回へと続く。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

大阪万博と音響彫刻のこと

久方ぶりに個人的な“大阪万博”熱が再燃するような、そんな興味深い新聞記事に出合い、そのクラウドファンディングの主旨に賛同し、些かの支援の企てをウェブ上で取り計らった。このネット出資が功を奏するかどうかは現時点では分からない――。しかし、“大阪万博”に対する憧憬と抽象音楽への深い関心の交差は、紛れもなく私自身を一瞬にして突き動かした。このプロジェクトが無事に成功してくれることを祈る以外にない。
 私が突き動かされたのは、朝日新聞朝刊5月27日付茨城版の「再び響け 大阪万博の『音』」という記事である。「音響彫刻修復へ ネットで出資者募る」という副題に刮目し、興味を持った。掻い摘まんで記事の内容を説明すると、1970年の大阪万博で出展されていたフランソワ・バシェ(François Baschet)製作の「音響彫刻」を、茨城県取手市の東京藝術大学ファクトリーセンターが修復・公開することを目的とし、その資金200万円をクラウドファンディングで(6月末まで)募っている――というもの。バシェの「音響彫刻」は17作品あって、過去に修復された5台以外の12台がこれに含まれる(一部寄贈された作品があるらしい)。
§
 この「音響彫刻」の修復プロジェクトに関しては、バシェ協会のホームページが詳しい。それとは別に、私自身も独自にこの「音響彫刻」について調べてみた。そもそも“大阪万博”でこのようなオブジェがあったのかということに対し、私はこれまで聞いていたような聞いていなかったような、俄に判然としなかったのだけれども、最近、坂本龍一氏のアルバム『async』の中で過去に修復されたバシェの「音響彫刻」が使用されたことを知り、なんとなく朧気な輪郭が見え始めたのだ。そこではっきりと理解するために、当時の“大阪万博”の公式ガイド本(『日本万国博覧会 公式ガイド』)を開いてみた。
 現代音楽の音楽家・武満徹氏がバシェに依頼して作られた「音響彫刻」は、鉄鋼館で出展された。武満氏は鉄鋼館の芸術監督を担っていた。鉄鋼館は、日本鉄鋼連盟主管のパビリオンで、主立った企業を抜粋すると、八幡製鉄、富士製鉄、日本導管、川崎製鉄、神戸製鋼や大阪製鋼、三菱製鋼、日本ステンレス等々で、その他の組合や協会も連なっている。この公式ガイド本によれば、鉄鋼館は、“世界に誇る音響装置”、“古代ローマのコロシアムを思わせる大ホー…

石内都―Infinity∞

私がトノ・スタノの作品が観たく、『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』が催された東京・銀座の資生堂ギャラリーへ訪れたのは、もう6年も前のこと。それは2010年8月であった(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)。それから今年の夏、『Frida is 石内都展』 を観ようと、同じく資生堂ギャラリーを訪れたのだけれど、ギャラリーの手前まで来て急に、“突発”の用事に襲われ、泣く泣く引き返して地下鉄の銀座駅へ落ちていったのである。つまり、私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかった――。
 石内都という写真家の特徴的な作品を、過去、しばし眺める度に、ある2つの作品を必ず思い出す。  一つは映画である。1966年に公開された勅使河原宏監督の『他人の顔』(原作・脚本は安部公房)。そしてもう一つは、文芸雑誌『群像』の2008年3月号に初めて掲載された、大庭みな子著の短篇小説『痣』。これらには共通項があって、それは《喪失》であったり、《傷》といったモチーフで括ることができるだろう。  『他人の顔』は、顔に大きな《傷》を負った男が、別の男の顔の仮面を秘密裡に拵えさせ、他人になりすまし、自分の妻を誘惑するというストーリー。自分が自分という存在を《喪失》し、仮面をかぶってまったく別の人となった時、《喪失》した自分は、その劣等感の反動であらゆる欲望を満たそうと際限なく暴走してしまう悲劇。  『痣』は、原爆が投下された直後の広島の町にて、無残な顔になった友人の恋人に声をかけられず、戦後、友人に再会しても恋人を見かけたことをとうとう告げることができなかった主人公の懺悔。痣とは、ここでは主人公が精神的に負った《傷》と受け取ることができる。
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 私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかったので、彼女の写真集『石内都 Infinity∞ 身体のゆくえ』(求龍堂)を眺めることにした。この写真集は2009年、群馬県立近代美術館にて催された同題の個展をカタログ化したもので、彼女の80年代後半からの作品が数多く収録されている。
 彼女の作品を眺める時、私はどうしてもそこから、《花の匂い》を感じてしまう。それはまったくの気のせいであろうか。  写真集の中で、「1906 to the skin」(1994年)と「A to A」(2006年)の作品について考えてみ…

スペース・シアター―大阪万博・鉄鋼館の記録

かつて秋田の高校が“大阪万博”へと向かった修学旅行の話「高校生の万国博読本」とは少し趣を変えて、ここでは再び「大阪万博と音響彫刻のこと」に関連し、鉄鋼館の話に立ち返りたいと思う。
 1970年“大阪万博”で前川国男設計の鉄鋼館だった建物は、今もその跡地、つまり万博記念公園のまったく同じ場所に現存している。現在は「EXPO’70パビリオン」と称し、“大阪万博”全体のメモリアル・スペースとなっているようだ。記念館のホームページによると、当時「スペース・シアター」と呼ばれたその円形の大ホールも、いまだ残存しているとのこと。ここは、ガラス越しによる観覧が可能らしい。
 最近私は、当時の「スペース・シアター」の音響を記録した、貴重な音楽アルバムを蒐集した。この音楽アルバムは『スペース・シアター:EXPO'70 鉄鋼館の記録』(ソニー・ミュージック・ジャパン)といい、“期間限定CD”として市販されている。すなわち、1970年発売同名LPの復刻盤である(私はこの2つとも所有することができた)。
 収録曲は、当時の音楽プログラムを再現した3曲。武満徹の「Crossing」、高橋悠治の「Yéguèn」、イアニス・クセナキスの「Hibiki Hana Ma」。3曲とも日本フィルハーモニー交響楽団の演奏録音で、1曲目と3曲目の指揮者は小澤征爾(1970年1月、川口市民会館で録音)、2曲目は若杉弘(1969年11月、日本フィルハーモニー交響楽団リハーサル・ホールで録音)である。  アルバムのクレジットによると、レコーディング・ディレクターは草刈津三、音響ミキサーは若林駿介氏。おそらくこれらの演奏の録音は、マルチ・トラック・レコーダーを使用したものと思われ、通常のクラシック音楽のレコーディングと変わりはない。ただし、鉄鋼館の「スペース・シアター」は特殊な音響ホールである。ホールの床や天井に設置された千個を超えるスピーカーから音を再生するため、12チャンネル出力のいわゆる“スイッチング・システム”と呼ばれるコンピューターの自動制御装置を使って音像を可変させ、録音された演奏を立体的に再現したのではないか。会場にいた観客は、前方後方にとどまらず、あちらこちらから迫力ある音が発生して度肝を抜かれたはずである。  しかしながら、これをそのまま現在のオーディオ・システムで再現(再生)するこ…