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おはようパソコン通信

【懐かしい雑誌『UTAN』1995年11月号】
 たまたま最近入手した、古い学研の科学雑誌『UTAN』の“パソコン通信”の特集記事を読んで、その言葉の甘美なる響きと共に、まだ20代であった淡い「90年代」を走馬灯のように――私は走馬灯という実物を一度も見たことがないが――思い返してみたりした。
 そもそも小学生の頃、8ビット・パソコンを愛玩していた私は、パーソナル・コンピュータなるものに対する愛着は少なからず残り香としてあったけれど、80年代後半以降普及した“パソコン通信”――音響カプラを用いてデータ通信をおこなうネットワーク・サービス、あるいはそのコミュニティ――の経験がなく、また「90年代」におけるDTMなどといったコンピューター・ミュージックから完全に疎外した状況にあった。1995年11月に発売されたWindows 95日本語版の普及により、徐々にニフティサーブが衰退していった時代を、遠目に、しかも離れすぎぬ距離で眺めていたことになるだろうか。

【巻頭大特集「おはようパソコン通信」】
 入手した『UTAN』1995年11月号の特集記事「おはようパソコン通信」はなかなか興味深い。最初のページは「最先端を行くインターネット」と題され、インターネットとは何かについて軽めに解説している。
 そう言えば当時、インターネットという言葉が世間で流行り始め、知ってか知らずか玉石混淆の情報が飛び交った。ある意味狭いコミュニティであったパソコン通信とは違い、劇的に広く世界中の情報を瞬時に誰もが平等に入手できるようになるインターネット。その頃のメディアだとか、私の周辺の知人の噂がとにかく凄まじかった。――そんな訳の分からん情報を入手して、なんの役に立つの?お金儲けになるの?英語がしゃべれないからなんのことだかさっぱり。おれはファミコンの方がいい。それって、タダで海外旅行できるんですか?インターネット?世界の網って何?など。下々の井戸端会議の妄想、オカルト、亡者のたぐい――。
 「最先端を行くインターネット」のページでは、慎ましやかなこんな文面がある。

《これからの世の中、一般人もコンピュータ・ネットワークに参加するようになってくるだろう。それを見越したインターネットの開発者達は、初心者でも簡単に扱えるとても便利な機能を持ったインターネット用のソフトウェアを作ろうと、日々精進している。その中の一つがWWWといえるのだ。WWWの登場はインターネット上での革命的な出来事なのだ》
(学研『UTAN』1995年11月号より引用)

 そのページの下部には、当時の懐かしいブラウザ、NetscapeによってアクセスされたJavaのホームページとCyberCashのホームページの画像が掲載されており、World Wide Webが画期的かつ革新的なネットワーク手段であることを印象づけていた。ちなみにインターネットの“最新技術”として、次のページには、VRML、NetPhone、CU-SeeMe、Real Audio、Acrobat、Turbo Gopher VRのアプリが紹介されていた。

 また、特集の後半ページでは、「草の根BBS開設への道」と称し、ホスト局開設に必要なものとして、①パソコン本体(古い98が狙い目と書いてある)、②ディスプレイ、③ハードディスク(中古の100MBクラスで十分と書いてある)、④モデム(最初は14400bpsのものを選ぶのがいいだろうと書いてある)、⑤電話回線(自宅の回線を使わせてもらうか、どこかに余った回線があれば、それを使わせてもらおうと書いてある)と列挙し、ホストプログラム一覧にはBig-Model、MASH、KT-BBSが挙げられていた。

§

 「90年代」の前半というと、我が家では既に黒電話ではなくコードレス電話だったように思うが、プッシュ回線に切り替えて数年経った頃だったと思う。まだまだ固定電話での音声通話が主流の時代であり、そんなプッシュ回線の電話機で友人の電話番号を登録していた私は、プルルルルとワンプッシュで友人を呼び出し、劇団の打ち合わせで深夜、長電話をしたものだ。まだコミュニケーション・ツールの最上級は電話であり、電話一辺倒であり、ファクシミリなどはまだ敷居が高かった。やがてポケベルが一般普及したけれど、私は持たなかった。だからパソコン通信やインターネットなど、そんな高いパソコンを買い、高いモデムを買い、高い通信料を払ってまでソーシャルなデータ通信を趣味範囲で楽しもうという気には到底なれず、そういう身分でもなかった。

 しかし時代の波というのは加速するものである。私が初めて携帯電話(PHS)を持ったのが1997年で、シャープのモバイル端末「ザウルス」でPHS回線を使ったデータ通信を初めて経験したのは、1999年頃ではなかったか。そう、それがWWWデビューである。
 当時のデータ通信料1分10円はなかなか厳しく、「10円メール」というのが流行ったのもその頃だ。メール以外では、オフラインであらかじめデータを入力しておき、回線をつなげた直後、それを送信してすぐに回線を切る。そうしてできるだけ通信時間を短縮させて使用していたのだ。ブラウザでは、かなり通信料がかさ上げされてしまうJPEGやGIF画像の読み込みを遠慮し、ブラウザでの画像の読み込み設定をあらかじめオフにしておくなどカスタマイズを強いられた。
 けれども、2000年代に入ってからADSL回線網が段階的に普及。プロバイダの料金体系は固定料金制となり、この通信費用の問題は一件落着した。

【The Trojan Room Coffee Machine】
 最後に一つ。特集記事を読んでいてふと目に留まったのは、ケンブリッジ大学Trojan研究室のホームページとやら。「コーヒーメーカーの現在の残量がわかるホームページ」とある。
 大学の研究員達がその室内で飲んでいるコーヒーの製造機をカメラで撮り続けているだけの話なのだが、いま考えると、当時のWWWとしてなかなかオーセンティックな試みだと思った。まだまだ覚束ないデジタルカメラを使い、毎秒1フレームずつビデオキャプチャーされ、サーバーにそのJPEG画像データを送るプロトコル。ネット権化をねらう優秀な人達の、小さな試み。これを身分相応、通信料がかろうじて痛くない人は、ずっと眺めていたに違いない。

 さて現在、このホームページは存在するのかと思い、確認したところ、驚くべきことに今も存在した。ただし現在はキャプチャーされておらず、2001年8月22日に終了した旨の記述があった。今は、最後にサーバーを停止した際の画像のみアップされている。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…